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カテゴリ:街道を行く( 80 )

室生古道を行く 2017年秋

私には3人の孫がいます。一番歳上の今年中学に入学した孫は、休日も部活や塾に追われ兄弟そろって我家に遊びに来ることが難しくなったのですが、11月の連休にうまく休みがとれ久しぶりに我が家に遊びに来ました。

翌日、「室生古道」を歩き「室生寺」に行こうという事になり、妻と3人の孫と5人連れで近鉄電車に乗り榛原駅へと向かいました。

榛原駅からタクシーに乗り「伊勢本街道」の高井宿へ。

ここからから仏隆寺(ぶつりゅうじ)→唐戸峠→西光寺→室生寺のコースです。

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高井宿から伊勢本街道を進むと間もなく仏隆寺に向かう道と伊勢本街道が分岐します。

ここであえて遠回りになるのですがもう少し伊勢本街道を進み、途中から折れ仏隆寺に行くことにしました。

分岐点あたりで見かけた花畑。

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分岐点からは、杉・桧の木立の中を急坂が続きます。

孫達は、道端で適当な枝を拾い杖にして坂道を登ります。

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坂を登り切ったあたりに石垣からしめ縄をまいた大木が道を覆います。

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この民家は依然「松本屋」という伊勢本街道沿いの旅籠でした。

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松本家住宅を過ぎ枯葉を踏みしめながら山道を進むと数本の杉が株元で癒着し、16本の杉が一株になった巨木「高井の千本杉」が現れます。

根元からは水が湧き、旅人の喉をいやしてくれます。

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かつて千本杉あたりには、旅籠や茶店があったそうで、その一つが「大野屋」という屋号の「津越家住宅」。母屋が「大和棟」の立派な民家です。

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この辺りから高原の田園風景が広がります。

孫たちは、歌を歌ったりふざけたりしながら道を行きます。

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この辺りは「赤埴」というところ。ここには宝形造りの小さな御堂に「千体仏」が祀られています。由来は16世紀前半にさかのぼるそうで、子育ての仏さんとして信仰されています。

お堂内には色花が飾られこの地域の人々の信仰の深さが感じられます。

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山あいの道をさらに進み急坂を登りきると、ちょっとかすんだ空気の中に茅葺の民家が現れ、日本の原風景を見ることができます。

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回り道をして「仏隆寺(ぶつりゅうじ)」に到着。

参道登り口にある茅葺の地蔵堂で休憩。

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この小さな山寺の山門に一直線にのぼる石段の中ほどに、樹齢900年という奈良県下最古最大の桜の木があります。

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これは昨年の4月に妻と室生古道を歩いた時の写真。

このときは桜見の人達でにぎわっていましたがこの日は我々のみ。

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仏降寺の本堂の前になぜか百数十年生であろう杉の大木が伐採され置かれていました。

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ここから唐戸峠へと登りが続きます。

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杉林の山肌に伐採された杉が無残な姿で転がっています。10月の21号台風の大雨で流れ出たものと思われます。これら間伐材の活用を真剣に取り組まなければ、山が荒れ流木となって大きな災害にもつながるのです。

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ようやく唐戸峠に到着。

ここで妻が作ってくれたおにぎり弁当を食べることにしました。

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ここからは室生寺までは下りの道です。

道中の紅葉は色づき始めでしたが、ススキは陽光を受け銀色に輝き、風は冷たく秋の深まりを肌で感じました。

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ひたすら長い坂道を下り、道をふさぐ害獣防止のゲートをくぐり、「腰折れ地蔵」を過ぎるとようやく里に出て「西光寺」が現れます。

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西光寺の樹齢400年といわれるしだれ桜。

昨年、妻と二人で同じ道を歩き見たこの桜は見事でした。

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そして眼下に室生の里が広がり、谷の底に室生寺が望めました。

時刻は2時、高井宿を出発したのが9時過ぎ、ここまで5時間程かかった11kmほどの古道歩き。

孫たちは途中、目面しいものを見つけたら観察し、枝の杖を振り回しふざけ遊びながらの道中でした。

私の趣味の「街道歩を行く」、さて次回孫たちはついてくるかどうか?

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by y-tukide | 2017-11-13 15:37 | 街道を行く

篠山街道 福住から篠山を行く

9月のはじめ、京都の亀岡から丹波篠山の福住まで「篠山街道」を歩いたのですが、

今回は福住まで車で行き、そこから篠山城の城下町である篠山へと街道を歩くことにしました。

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篠山市の福住地区は、篠山盆地の東端に位置し、街道沿いに東から「西野々」「安口(はだかす)」「川原」「福住(ふくすみ)」の四つの集落からなります。

近世、「福住」は宿場町として栄え商家建築が街並みを形成し、「西野々」「安口」「川原」には、街道沿いに農家建築が並び独特の街並みを形成しています。

この福住地区は、5年前の平成2412月に伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)に指定されました。

街道沿いに、茅葺を鉄板で覆った家、瓦葺で「つし2階」の入母屋造りの家が連続し、

玄関が建物の棟に直行した妻側に設けられた「妻入り」の農家建築が並ぶ「安口(はだかす)」の集落。

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街道沿いに建つ広い間口の妻入りの茅葺農家。

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この辺りには、篠山の特産品「丹波篠山黒豆」の畑が広がります。

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住吉神社を越えたあたりから街道は福住の集落に入ります。

各地の一般的な街道筋の宿場の町家は、建物の棟と並行した側面に玄関がある「平入り」の建物が多いですが、ここでは一部「平入り」の町家もありますが、「妻入り」商家建築が連続して並ぶ街並みを形成しています。

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格子を施した平入りのこの町家は、改修されイタリア料理店として活用されています。

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福住の集落の外れ、篠山に向かう372号線と大阪の能勢町に向かう173号線の交差するあたりに根回り13.7m樹齢700800年と推定される「安田の大杉」が悠然と立っています。

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街道は、「安田の大杉」から173号線を一時走り、「小野」の集落から折れ旧道を行きます。

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さわやかな秋晴れの中、のどかな田園風景の中を歩くのはとても気持ちがいいです。

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この時期、街道筋の家々のまわりにはコスモスが、あぜ道には真っ赤な彼岸花が咲き、目を楽しましてくれます。

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杉の巨木が立ち並ぶ参道にある波々伯部(ほうかべ)神社。

京都の祇園社(八坂神社)から勧請したと伝承され「丹波の祇園さん」と呼ばれ、毎年8月に例祭(祇園祭)が行われるそうです。

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この辺りの街道筋の家々の玄関先には、鯛の絵が張られています。これは何かと地元の人に聞いてみると祭りの際、この絵を神社からいただき玄関に張ることで厄払いになるとのことでした。

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土塀に囲まれた立派な茅葺の民家。

篠山街道を歩いていて、立派な古民家が多く残っているのにはうれしい限りです。

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この建物は、「重兵衛茶屋」。

江戸時代、大名の参勤交代の時や一般の旅人の休泊所として利用された茶屋で、
篠山市の文化財に指定されています。

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ようやく篠山城跡に着きました。

城の堀のまわりに今も残る武家屋敷跡。

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篠山街道を亀岡から篠山まで二日をかけて歩いた「街道を行く」。

丹波の自然とのどかな農村風景、そして街道筋に今も残されたこの地域特有の貴重な建物。

17年前にこの街道を車で走り、その時見過ごしたものが今回歩いて見ること、知ることができた街道歩きでした。

とりわけ天引集落での住民による「天引区の活性化と未来を考える会」の取り組み。そして福住地区での街道沿いの東西3.260m、東西460mの広範囲での伝建地区指定を望んだ地元住民の地域に対する思いと誇りには感服しました。

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by y-tukide | 2017-10-02 08:08 | 街道を行く

篠山街道 亀岡から福住を行く

9月のはじめの休日、京都の亀岡から丹波篠山の福住へと「篠山街道」を歩きました。

篠山街道は、古来京都から亀岡を西に、丹波篠山を経て北近畿、山陰に通ずる律令時代の官道「山陰道」です。丹波篠山の民謡「デカンショ節」の名をとって篠山あたりでは別名「デカンショ街道」とも呼ばれています。

私はこれまでに何度かこの道を車で走り、篠山に行っていますが歩いて行くのは初めてです。

亀岡市の「吉川」という所、街道筋には蔵・門を構えた立派な民家が多く見かけられます。

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街道筋に建つ造り酒屋の「大石酒造」。

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篠山街道と並行して走る372号線を折れ「湯の花温泉」方面に向かいます。道は登り坂が2.5km程続き、そして湯の花温泉を過ぎると「高芝」という集落に入ります。

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街道沿いに広がる黄金色の田園風景。

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平安時代創建の古刹「谷性寺(こうしょうじ)」。

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戦国時代、織田信長の命により丹波地方を平定した明智光秀は、この寺の本尊である不動明王を厚く崇敬し、「本能寺の変」を決意するや不動明王に請願し本懐を遂げます。

ところが「山﨑の戦」で無念の最後を遂げますが、光秀を慕う士がここに「首塚」を残しました。

毎年初夏、境内には明智家の家紋である桔梗の花が咲き乱れ「桔梗寺」とも呼ばれています。

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街道をいくつかの集落を抜け、ある民家の長屋門の前で小休止。

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この門の中で売られていた野菜の賀茂ナスとオクラを土産に買いました。

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山陰道「野口の駅」跡の碑。この辺りに宿場があったのです。

平安時代の末期、源頼朝の命により源義経も平家討伐のために「一ノ谷」へと向かった時ここを通ったのでしょう。

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街道筋にはコスモスが咲き栗が実り、秋の色が色濃く感じられます。

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「埴生」の集落、「はぶ」と読みます。ここにも宿場があったそうです。

またこの地には、戦国時代、明智光秀の丹波攻略のおり、丹波一円を抑えていた波多野氏と光秀との仲を取り持った野々口西蔵坊という武将が構える山城「埴生城」があったと集落の入り口の案内板に記されていました。

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昼飯にと出掛けにコンビニで買ったおにぎりがあったのですが、街道を歩いていて唯一見つけた食堂でうどんを食べ一息つき、さらに街道を進み「天引峠」の手前にある「天引(あまびき)」という集落に入りました。

ここは篠山方面に向かう372号線と園部に抜け54号線が交差するところにある集落です。

集落内にはきれいな小川が流れ、その水は防火用水・農業用用水としてだけではなく、生活用水としても利用され、各家の前には水路に下りるための石段が設けられています。

水路の一部には、清流に育つ梅花草が初夏に水中で白い花を咲かせ、ホタルも飛び交うそうです。

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そして見つけました黄金色に実る稲田の中に建つ茅葺の小さな「薬師堂」。

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17年前に372号線を走っているとき見かけ写真におさめたのですが、その場所を忘れてしまっていて、この建物を探すことも今回の街道歩きの目的の一つでした。

17年ぶりに再会し、うれしいことにまわりの風景も全く変わっていませんでした。

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薬師堂を改めて写真におさめた後、近くの樹齢450年と言われるムクの大樹が見事な八幡神社で休んでいると、偶然そこで村の方と話す機会を得ました。

その方は村人が160人余りに減った天引の村を愛し、活性化しようと「天引区活性化と未来を考える会」という組織で様々な取組されているとのことでした。

そして村の誇れる10撰を取り上げたパンフレットをいただきました。そのパンフレットの表紙がこのムクの木です。

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さらに天引集落を歩いているとご老人に声を掛けられ「千体地蔵」を見せてあげると。

そのご老人は、ご自宅の前にある小さな御堂の鍵をわざわざ開け、そこに納められた千体地蔵を見せてくれました。

ご老人曰く、先代からの言い伝えによると、江戸の中ごろ九州から一人のお坊さんが旅してここに来られ、千体の地蔵を作りたいと当時の当主に申し出、そしてこの御堂の裏山にあったケヤキを切って、御堂を建て千体の地蔵を彫られたそうです。

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そして次に寄ったのが、石段の上がると鐘楼門がある曹洞宗の寺「大隠寺」。

この寺も17年前に訪れ記憶に残っているいい寺です。

確かに天引の集落には見どころが多く、人のいい方たちとも出会え話も聞けました。

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天引に長居しすぎ早く福住に行かねば帰りのバスの時間に間に合いません。

急ぎ天引峠の下を走る天引トンネルを足早に抜け福住へと急ぎ向かいました。

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by y-tukide | 2017-09-25 13:53 | 街道を行く

大和 壷坂みち―土佐街道から高取城をゆく―

私は司馬遼太郎のファンですが、紀行集である「街道をゆく」シリーズの「大和 壺坂みち」で司馬遼は高取城跡を訪れています。

高取城は、奈良盆地と吉野の間の山地にそびえる標高約584mの高取山にある山城です。南北朝時代に南朝方の越智氏により築かれ、1585年に豊臣秀長の家臣本田氏と1640年(江戸期)に城主となった植村氏によって大改修されたものです。明治の新政府による廃城令により天守をはじめ上物がとりこわされ、今は石垣を残すのみですがその規模は広大です。

私は、以前に車で途中まで行き山の中腹から歩き城跡に行ったことがあるのですが、今回は、ふもとの城下町「土佐」から446mの城跡へと歩くことにしました。

江戸時代高取藩の城下町として栄えた高取は、土佐街道沿いに今も低い軒先に格子戸の古い街並みが続き、昔の繁栄を物語っています。

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高取は、城下町であると共に薬の町でもあります。歴史は古く飛鳥時代、推古天皇が聖徳太子や供の者を従え、高取の山野で「薬狩り」を行ったと伝えられています。そして修験者によって「大和の薬」として全国に広められたのが「大和売薬」の起こりだそうで、その拠点となった町です。

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この建物は、お医者さんです。立派な長屋門の一部は廃城となった高取城の門を再利用したものだそうです。

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城下町を形成する中心地である「土佐」の地名に、大和の地で何ゆえ土佐?と以前から疑問に思っていたのですが、6世紀のはじめ頃、大和朝廷の都造りにの労役に、土佐の国から召し出され、任務を終え帰郷するにも援助が出ず帰郷がかなわぬ人々が住み着き郷里を偲び「土佐」と名付けられたそうです。

吉備川に架かる「鷹鞭(たかむち)橋」からの土佐の町。

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土佐の風格のある街並みを抜け、ここから高取城へと向かいます。

緩やかな坂道を登っていくと、道は舗装道から山道へと入ります。うっそうと茂る杉・桧の林の中、道沿いに小川が流れひんやりとした気持ちのいい空気が漂います。

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山道は、途中から急な坂が続きます。その道端に野仏が!

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坂道を登りきると急に視界が開け、前面に西国三十三所第六番札所の「壷坂寺」が現れます。

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壷坂寺の境内には、本堂・礼堂・阿弥陀堂・三重塔・天竺渡来大石像が建ちます。

ここで一息つき拝観し、高取城へと道を進みます。

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道はちょっと舗装道を走り、「左五百羅漢のみち」の石塔を目印に左に折れ、杉の根があらわになった細い山道を登ります。

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すると山肌に現れたいくつもの巨岩に刻まれた無数の「羅漢(らかん)」の石仏群が現れます。

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羅漢とは、仏教において煩悩を払い去った聖者のこと。いつの時代に彫られたのか、風雨にさらされ表情がだいぶ風化していますが迫力があります。

人一人いない山の中で無数の羅漢像と向き合っていると神秘的というより、聖者像とはいえ一種不気味さが漂います。

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次から次へとあらわれる羅漢像を横目に、道を間違っていないかと危ぶみながら、たまに現れる道標を頼りにさびしげな山道を行きます。

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突然、蛇が目の前を横切ります。今年初めて見た蛇です。

この日はこれをはじめに3匹の蛇とご対面しました。

クマと遭遇するよりましかと思いつつひたすら山道を登ります。

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そしてようやく車道と合流する高取城跡の入り口に着きました。

3年前は、仕事で吉野に行った帰りにここまで車で来てここから城跡に登ったものです。

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ここから20分ほど登って行くと生い茂る樹木の中に石垣が次々と現れてきます。

司馬遼はその光景を「自然林と化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じる」と綴っています。

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城内には実生から自然に育った巨木が茂り、永い歴史の流れを物語ります。

3年前にここを訪れた時は、日曜日なのに二組しか会いませんでしたが、この日は別ルートから登ってきた何組かのハイカーや若者、家族連れが訪れていました。

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高取山の頂上に築かれた本丸跡からの南の眺めは素晴らしく、手前に吉野山、奥に大峰山、大台ケ原の山々を望むことができます。

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時刻は、昼を過ぎています。計画的なハイカーならば持参した弁当をここで食べるというのが通常だと思うのですが、残念ながら私は、寄り道が多いとはいえこんなに時間がかかるとは予想せず、弁当はおろか食べるものは何もなく腹はぺこぺこ。山登りを甘く見てはだめだと痛感。

急ぎ別ルートの急坂を麓の土佐の町へと足早に降りることにしました。

降り道でなぜか明日香でも見られる「猿石」が!

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by y-tukide | 2017-06-12 13:37 | 街道を行く

大和街道 伊賀上野から柘植宿をゆく

「大和街道」は、江戸時代には加太越奈良道と呼ばれ、三重県を走る東海道の「関宿」の西の追分から分岐し、加太峠を越えて「柘植(つげ)」「伊賀上野」「島ヶ原」を通り奈良へと続く街道です。

4月末の連休初めに、妻と娘そして6歳の孫娘との珍しいメンバーで関西本線の月ヶ瀬駅から伊賀上野へと「街道をゆく」をしたのですが、今回は、私一人でその続きの伊賀上野から柘植宿へと街道を行きました。

伊賀電鉄の伊賀市駅に降りたのが朝の8時ごろ、ここから大和街道を行くとすぐに菅原道真を祀る「天満宮」があります。

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さらに進むと「大和街道」と伊賀上野と津、そして伊勢をつながる「伊賀街道」の分岐点にあたります。その角には古いたたずまいの井本薬局があります。現在も営業されていますが、朝早いので店は板戸が閉められていました。

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間もなく江戸時代「俳聖」と呼ばれた松尾芭蕉の生家があります。ここから芭蕉は各地を旅しました。伊賀上野には芭蕉にちなんで芭蕉翁記念館や俳聖堂、蓑虫庵があります。

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その先のT字路には、「左東海道せき道 右ならはせ山上道」と記された道標が建ちます。

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眼下に北へと伸びる大和街道。

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服部川を渡り背後に上野城の天守を見ながら街道を進み、「小宮神社」を過ぎると街道は東に折れ、「印代」という集落に入ります。

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集落を抜けると麦畑と田植を終えた水田ののどかな風景が広がります。この日は五月晴れ、風もさわやかで最高の「街道を行く」です。

私は、今年の3月に腰を患い、夜中に当然右足に電気が走り激痛で眠れぬ夜をすごし、そして杖なしでは歩けない惨めな日々が続きました。あの時の歩けない苦しさ思えば、こうして好きな街道歩きができる喜びはひとしおです。

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田園風景の中をひたすら東へと進み「佐那具」という集落に入ります。

街道筋には、元旅籠であったかと思われるつくりの建物や商家であった「平入り」建物が軒を並べます。

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この店は金物屋さん。窓越しに鎌などの道具が飾られ、鋸の目立てもしているようです。ご先祖は鍛冶屋さんだったのかもしれません。

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街道は「柘植川」を渡ります。土手沿いに桜並木が続き、青空にぽっんと浮かぶ雲。

川は濁っていますが多分田植の際に引き込んだ水の濁りかと思われます。

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街道筋の町はずれに面白い建物発見。一般的に洋風の建物に使われるS字型の瓦で葺かれた蔵と納屋。壁は漆喰で腰は銅版張り。渋い色のS字瓦が「本瓦」にも見え意外と違和感を感じません。改修なのか新築なのか詳しくは見ませんでしたが「本瓦葺」に比べ瓦は軽量で安価ですので至極合理的に考えられています。

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集落を抜け街道は柘植川沿いを走ります。川沿いには桜並木が永遠と続きます。

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木々の間からシラサギが。

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対岸の竹藪の中の道に向かって架けられたコンクリートの潜水橋。

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菜の花畑、気持ちのいい風景が続きます。

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いくつかの集落を通りぬける中、街道沿いで見つけた茅葺の民家、大和街道を歩いていて初めて見た茅葺民家です。

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柘植の集落に入ったあたりで、柘植川に流れ込む小川に架けられた「勧請縄」を発見。

勧請縄は、疫病などの悪霊が村に入ってこないようにするために、村の入り口に張られた結界です。前回、大和街道を歩いた時伊賀上野の手前の集落の入り口でも見ました。

大和街道沿いには、今もその風習が残っているようです。

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ようやく街道は、「柘植宿」に入ります。街道が鍵型に折れるあたりが柘植宿の中心で本陣もあったようなのですが、あまり宿場の面影は残っていません。ただ気になったことは、街道沿いの民家の何軒かの土塀がレンガで積み上げられていることです。地元の方に聞くとこのレンガは、明治に開通した関西本線の加太峠を抜く「加太トンネル」に使われたレンガの残りを利用したものだそうです。

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時刻は午後3時、この先の大和街道は、国道25号線を歩き加太峠越えです。国道を延々と歩くのは嫌なので日はまだ高いのですがここで終わりとし、柘植駅から帰路につくことにしました。

二日をかけて関西本線の「月ヶ瀬」から「伊賀上野」を経て「柘植」へと歩いた「大和街道」、景色もいいし歴史のにおいも濃く、気持ちよく歩けた「街道を行く」でした。

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by y-tukide | 2017-06-05 10:20 | 街道を行く

大和街道 月ヶ瀬から伊賀上野を行く

大和街道は、江戸時代には加太越奈良道と呼ばれ、三重県を走る東海道の「関宿」の西の追分から分岐し、加太峠を越えて「柘植(つげ)」「伊賀上野」「島ヶ原」を通り奈良へと続く街道です。この日、私と妻と娘そしてもうすぐ6歳になる孫の4人で関西本線の月ヶ瀬から伊賀上野へと大和街道を歩きました。このメンバーで街道歩きをするのは初めてです。

自宅を朝6時過ぎに出、IR宇治駅から電車を乗り継ぎ、関西本線の月ヶ瀬駅を降りたのは、8時前、さぁ~ここから出発です。

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しばらく歩くと「二本杭跡」があります。二本杭は俗称で大和街道の藤堂藩「伊賀の国」と柳生藩「山城の国」の境として幕府検視の指示により、それぞれの杭を合わせて設置されたそうです。これはそれを石柱で再現されたものです。

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民家が点在するのどかな山里を歩きます。

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ここは藤堂藩が設けた関所の跡です。

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孫は、きれいな花や虫を見つければ立ち止まり、珍しいものを見ては質問し、なかなか前に進みません。

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1時間半ほど歩いて「行者堂」につきここで休憩。

行者堂は、自然石の岩屋の中に役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られています。

この辺りには、阿弥陀磨崖仏、大師堂、不動明王像などが祀られ信仰の霊地です。阿弥陀磨崖仏は、南北朝から室町時代のものと推定されているそうです。

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木津川と小さな小山川が合流するこの辺りは、岩谷峡と呼ばれ景勝地です。小山川沿いでは夏場たくさんのホタルが飛び交うそうです。

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休憩後、先を進むと島ヶ原の集落に入ります。

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島ヶ原は大和街道の要衝にあって藤堂藩の時代、街道の宿場町として賑わいました。この建物は旧本陣で多くの大名が宿泊や休憩をしました。

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街道をそれ関西本線に島ヶ原駅でトイレ休憩。

この島ヶ原に鉄道が開通したのは、明治30年です。当時、関西鉄道株式会社だったのですが、その後、関西鉄道は国に買収され、明治40年に日本国有鉄道となり関西本線と改称されたそうです。今も残る駅の建物は、当時の関西鉄道のものであり、昔日の面影を残しています。

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島ヶ原宿を後に、木津川に架かる鉄橋を渡り伊賀上野へと向かいます。

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そして今回の最大の難所である急坂の「与右衛門坂」を行きます。

「笠置峠か与右衛門坂か、江戸の箱根はなけりゃよい」とうたわれたそうです。

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街道沿いの山田では、田植が行われていました。

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山の中のため池「三本松池」

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ここからずっと山道が続きます。

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その山道で小さなカエルを発見。

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ようやく山道を抜け里に出ました。

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里に出て街道を進むと国道163号線にあたります。ここからは歩道が無い車が行きかう道を孫の手を引き歩きます。

国道横を流れる川に「勧請縄(かんじょうなわ)」が張られていました。

勧請縄は、疫病などの悪霊が村に入ってこないようにするために、村の入り口に張られた結界です。この辺りには今もその風習が残っているようです。

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ここでついに5歳の孫はギブアップし疲れて眠ってしまいました。目的地の伊賀上野へはまだ3キロほどあります。急きょタクシーを呼び助けてもらうことに。

何とか無事に伊賀上野につき、遅めの昼飯を取りました。

孫は大好きなハンバーグをペロリとたいらげました。よほど腹が減っていたのでしょう。何せ朝から10キロは歩いたのですから。

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伊賀上野は忍者の町、あちこちに忍者が出没していました。

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by y-tukide | 2017-05-08 11:08 | 街道を行く

越前 勝野と大野を行く

10月の連休、妻と越前の勝野と大野に行ってきました。

私は、勝野と大野にはこれまでに何度か訪れていますが、最初に行ったのは14年前です。きっかけは司馬遼(司馬遼太郎)の街道を行くシリーズの18「越前の諸道」です。

司馬遼は、昭和5510月に須田画伯と九頭竜川沿いを上下しています。

朝、京都駅0番ホームから658分発の特急サンダーバードに乗り福井駅へ。福井駅からえちぜん鉄道に乗り換え「勝山駅」についたのが948分。

ここから九頭竜川を渡り、勝山の町を散策しました。

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勝山は、中世から戦国にかけての軍事的要所として城が築かれ城下町が形成されました。現在の市役所あたりに城があったそうです。また勝山の町散策後に訪れる、中世に巨大な勢力を誇った「平泉寺」の寺内町として栄えた町でもあります。

現在「本町通り」には、豪雪に耐えるように深い軒に太い「登り梁」を掛け、それに「母屋」をのせたこの地方独特の大型の商家が結構残っています。

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その本町通りには、司馬遼が泊まった400年続く老舗の料理旅館「板甚(いたじん)」がありました。私もここを宿にしたかったのですが連休ということもあり予約でいっぱいでした。

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町を散策し、昼は越前名物の「おろしそば」と勝山の地酒「一本義」をいただき、午後は今回の目的地の一つである「白山平泉寺」に向かいました。

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「白山平泉寺」は、私は14年ぶりですが妻は初めてです。

「白山平泉寺」は、717年に越前の僧「泰澄(たいちょう)」によって開かれたとされています。

白山信仰の禅定道(ぜんじょうどう)は、美濃側、加賀側、越前側の三つの道がありますが、その越前側の拠点としてここに山伏が集まり、平安時代後半には天台宗比叡山延暦寺の傘下に入り一大宗教勢力となりました。

戦国時代には、四十八社、三十六坊と六千の坊院が建ち並ぶ宗教都市で、広大な寺領を持ち、僧兵は八千を数えたと伝えられています。

ただ司馬遼は本の中で「中世、平泉寺は悪僧の巣窟でもあった」と綴っています。

その宗教都市は、1574年に一向一揆の攻撃を受け全山が焼失してしまいました。

そして明治の始めに神仏分離令に基づき寺号を廃して「白山神社」と改められました。

禅定道の入り口にあたる「菩提林(ぼだいりん)」。

二百数十年生と思われる老杉がうっそうとした森を形成しています。

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舗装された道の横には、苔むした当時の石畳が続きます。

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いつの時代の石仏か、深い緑にとけこんでいました。

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坂道を登り切った所で視界が開け駐車場や真新しい建物が現れました。

私が14年前に訪れた時には、確か店なども無かったものです。また当時は会う人はちらほらだったのですが、この日は観光客が結構訪れていました。地元の人に聞くと数年前に吉永小百合さんのJR東海?のポスターの写真がここで撮られたとのこと、それ以来観光客が増えたそうです。

そのポスターの背景となった参道。

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幸い拝殿前のこの風景は、14年前と変わりませんでした。

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平成元年から始まった発掘調査では、白山神社境内から数百メートル離れた山林や田畑の下から、坊院跡(僧侶の住居跡)や縦横に張り巡らせた石畳が発見され、一部坊院の門・土塀が復元されていました。

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この日は勝山で宿をとり、翌日はバスで大野へと向かいました。

今回の旅でもう一つの目的は、大野の山里にある「宝慶寺(ほうきょうじ)」という寺に行くことです。

司馬遼が「越前の諸道」の旅で最初に向かったのが「宝慶寺」です。本の中でも司馬遼は、今も寺があるかどうか、ともかく地図を見ながら「宝慶」という村の地名を頼りに向かっています。14年前私もその寺に行きたくて越前池田から宝慶寺に向かったのですが、険しい山道を走り、結局道がわからないまま大野の町入ってしまいました。

今回は、地図で寺の位置を確認し大野でレンタカーを借り走りました。そして美しい杉の林を抜け今回は何とか宝慶寺につくことができました。

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司馬遼も何とか宝慶寺についたとき最初に出くわしたのは、「杉木立のはてにあった粗末な四脚門で、その門だけが、光のなかに浮かんでいた」と綴っていますが、いまは真新しい四脚門が浮かんでいました。

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宝慶寺は700年前に、「寂円禅師」によって開かれました。寂円禅師は中国の宋朝の人で、日本から宋に渡った道元禅師(永平寺の開祖)とともに、如浄禅師のもとで修業を続けられました。その後、日本に戻った道元禅師をしたって来日し、常に道元禅師に従いました。

寂円禅師は、道元禅師の死後この山に入り、如浄・道元禅師の禅風をひとり守り93歳まで生きられたそうです。

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今は、曹洞宗の道場として何人かの雲水がここで修業されています。

曹洞宗本山永平寺は観光客あふれかえっていますが、ここは静寂が保たれています。

ちょっと気になるのは、寺の麓で造成工事が行われていたことです。もしかして大きな駐車場を造っているのでは?

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また境内には、今は廃墟となった門前の宝慶村の茅葺の民家が1軒移築されていました。

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この後大野の町に向かったのですが、平野では可憐なソバの花が畑を白く染めていました。

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by y-tukide | 2016-10-17 10:19 | 街道を行く

初瀬街道 大和朝倉から長谷寺を行く

この日、妻と「初瀬街道(はせかいどう)」を近鉄大阪線の桜井から長谷寺を参拝し榛原へと歩く予定をしていたのですが、急に孫娘を見なければならないことになりなり、コースを短縮し3人で初瀬街道を行くことにしました。

朝9時ごろに近鉄大阪線の大和朝倉駅に降り、ここから長谷寺へと向かいました。

5歳の孫娘にとっては初めての長距離ウォーキング体験です。

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大和朝倉駅付近の初瀬街道の町並み。

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玄関に「杉玉」が吊るされた立派なお宅。造り酒屋さんだったのか?

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街道筋のこのあたりは、うれしいことに結構古い建物が残り風情ある町並みが続きます。

この建物も、よく手入れされています。

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街道沿いの田園風景は、秋そのもの。

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ところがこの日は台風18号の影響か気温は30度を超える蒸し暑い夏日。

5歳の孫娘にとっては、ちょっときつい初体験です。

家の陰でちょっと休憩。

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「黒崎」という集落を歩いていると街道の左側に立派な石の鳥居があり、その先のR165線を越えたところに「白山神社」という古社があります。

この辺りは第二十一代雄略天皇が営んだ「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」の伝承地だそうで、境内には万葉集の巻頭を飾る雄略天皇が読んだ歌碑が建立されています。

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黒崎集落に建つ、軒が本瓦葺で大和格子のこの建物、いい建物ですが地元の人に聞くと現在は空き家だそうです。

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集落を抜けたあたりで休憩も兼ねて「お絵かきタイム」。

妻が、ただ歩くだけでは孫娘かわいそうと考え、好きなお絵かきノートを持参したもので、彼岸花を色鉛筆で描いていました。

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そして押し花も。

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この先はR165線と交わり歩道を歩きます。大人にとっても自動車道路を歩くのは苦痛で倍疲れます。

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旧街道はR165線から別れ、「出雲」という集落に入ります。

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集落内には「十二柱神社(じゅうにはしら)」という神社があります。

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その境内にある説明書きによると、この出雲という集落は、日本の国技である相撲の始まりである、出雲国の勇士「野見宿禰(のみすくね)」と大和国の「当麻蹴速(たいまのけはや)」が角力(相撲)して野見宿禰が勝ち、その垂仁天皇に仕えこの地にすんだと記されていました。

そのいわれからか境内の狛犬の台座は、4人の力士が支えていました。

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出雲集落を後にさらに進んだのですが、孫娘はかなりばててきたので昼飯を取ることにしました。たまたま長谷寺参道手前に孫の好物のラーメン屋があったので入ったのですが、注文するなり「ラーメンがきたら起こして!」というなり寝入ってしまいました。

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店のご夫婦が、暑い中かわいそうにと大変気を使ってくださり、いろいろ便宜を図ってくださいました。そして起きて食事をした後も孫にリンゴむいてくださったり、栗を土産にといただきました。

孫娘が店で描いた栗の絵といただいた栗を持っての記念撮影。

大変お世話になりました。ありがとうございました。

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そしてこの店で真心と英気をいただきこの日の最終目的地である「長谷寺」へと向かいました。

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長谷寺では、あの長い階段を跳ねるように上って行ったのには驚かされました。

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花の寺の長谷寺、紅葉もはやいこの季節、花も無く唯一「きんもくせい」がかぐわしい香りを放っていました。

今回の街道を行くは、記憶に残る珍道中となりました。

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by y-tukide | 2016-10-03 17:47 | 街道を行く

初瀬街道 阿保宿から二本木宿を行く

初瀬街道は、大和方面から伊勢を結ぶ街道で大和の初瀬から名張を経て青山峠を越え松坂に至り、伊勢神宮に詣でる伊勢街道の一つの道です。

その初瀬街道を6月の初めに榛原から名張の「やなせ宿」まで歩き、その後も近鉄大阪線の青山駅近くにある「阿保(あお)宿」まで歩いたのですが、7月初めのこの日は「阿保宿」から「二本木宿」へと街道を行くことにしました。

「阿保宿」は、江戸時代のはじめ藤堂藩から「上野」「名張」とともに商いを許され、商家や旅籠が軒を並べにぎわったそうですが、今は静かなたたずまいの町です。

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宿場近くの鎮守の森の中にある「大村神社」。

桧皮葺の宝殿は、国の重要文化財に指定されています。

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畔の草がきれいに刈られた田園風景。

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小さな集落の中を行きます。

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街道歩きをしていて怖いのは、歩道のないトンネルです。

幸いこのトンネルには歩道がありました。

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そして「伊勢地(いせぢ)」宿」に。

宿場の入り口の野仏。

相当古いものでしょうか、かなり風化しています。

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「伊勢地宿」は、初瀬街道最大の難所といわれる青山峠の西麓の宿場で、20軒ほどの旅籠が街道沿いに軒を並べ、初瀬街道で最もにぎわった宿場だったそうです。

「大和屋」という屋号の元旅籠。

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宿場の中央には、文政11年(1828年)に建てられた常夜灯が建っています。

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この建物には、「とくだや」という看板が玄関先に掛けられていました。

明治の末期まで旅籠を営んでいたそうです。

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宿場の家並み。

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なつかしいこのポストは現役で活躍しています。

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街道はここから青山峠へと続きます。

本来ならばこの道を進むべきなのですが、この時期各地で「クマ出没」のニュースが流れていたことと、7月初めの炎天下の峠越えはちょっときついと判断し、この区間はズルをして電車で峠を越えることにしました。

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そして近鉄大阪線の「伊賀上津駅」から乗り、二駅目の「東青山駅」で降り、青山峠の東の入り口にあたる宿場「垣内(がいと)宿」に向かいました。

垣内宿を流れる清流垣内川。

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私はズルをしましたが、難所の青山峠を越えてきた旅人はこの風景にさぞかし癒されたことでしょう。

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垣内宿の民家の玄関先に屋号入りの暖簾がかけられていました。

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美しい風景の山間の宿場「垣内宿」を後に、

初瀬街道をさらに「二本木宿」へと向かいました。

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by y-tukide | 2016-09-20 11:19 | 街道を行く

初瀬街道 榛原から名張を行く

初瀬街道は、大和方面から伊勢を結ぶ街道で大和の初瀬から名張を経て青山峠を越え松坂に至る伊勢街道の一つの道です。峠が多く険しいが伊勢への最短道である「伊勢本街道」と榛原で分岐します。
初瀬街道はこれまでに車で巡ったことはあったのですが、今回は榛原から歩いて初瀬街道を行くことにしました。
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初瀬街道と伊勢本街道の分岐点には道標があり、その向かいに明治10年頃まで旅籠を営業していた「あぶらや」主屋が建っています。数年前に改修工事がされ宇陀市指定文化財に指定されています。ここには伊勢の国松坂出身の江戸時代の国学者である本居宣長が泊まった記録などがあります。
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「あぶらや」から国道165線を越えると趣のある街並みが続きます。
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その一角にツキデ工務店が7年前に再生工事をさせていただいたN様邸住宅があります。
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旧街道は途中で並行して走る国道165号線に交わります。国道を30分程歩き「天満台東口」というところを右折すると、室生ダム沿いに整備された緑地ひろばあります。その一角に自然石に彫られた「ぬれ地蔵」祀られています。
裏山からの水が落ち濡れていることからその名が付けられ、ダムが増水すると裾まで水没するそうです。
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このあたりからのどかな風景が広がり、とても気持ちよく歩けます。
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初瀬街道とほぼ並行して近鉄大阪線が走っています。よほど疲れたら最寄りの駅で電車に乗れるので気分的にかなり楽です。
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室生口大野駅付近には風情ある民家が結構あります。その中のこの立派な民家、なんとデザイン事務所の看板がありました。
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このあたりから山道を上り小さな峠を越えます。
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峠道を下り小さな集落を抜けると「三本松宿」に入ります。
ここには8年前にも訪れていますが、道を挟んで庭園のある元本陣であった「ぬしや」と正面の妻入りの大きな建物が建替えられていました。
8年前と現在の写真。
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とはいえ元旅籠の「ますや」の建物などが残り宿場の風情は今も感じられます。
「ますや」の端に建つ道標には「是より西 萩原二里六町」と「是より東 名張二里十二町」と刻まれ、ここが榛原と名張の中間であることを示しています。
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三本松宿を後に165号線沿いの「道の駅」で食事をとりひと息入れて、宇陀川沿いの道を進みます。
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「鹿高」という集落の中を歩いていると玄関の差し鴨居に八十八歳と名前が記された「しゃもじ」が掛けられていました。これはこの地方の習わしで八十八歳の米寿に手形としゃもじに名を書き玄関の差し鴨居に掲げ、長者を尊び祝うそうです。
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実は8年前にここに訪れた時にもそれを見つけ、これはめでたいと私が撮った写真にちょっと手を加え、2009年の「我社の年賀状」に使わせていただきました。
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街道は赤目口駅近くの集落の中を走ります。
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そしてようやく名張に着きました。この日はこれまで。
榛原駅に朝8時ごろに降り街道を行き、名張駅にたどりついたのが午後4時ごろ、
よく歩きました。
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by y-tukide | 2016-07-04 10:45 | 街道を行く