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カテゴリ:街道を行く( 74 )

越前 勝野と大野を行く

10月の連休、妻と越前の勝野と大野に行ってきました。

私は、勝野と大野にはこれまでに何度か訪れていますが、最初に行ったのは14年前です。きっかけは司馬遼(司馬遼太郎)の街道を行くシリーズの18「越前の諸道」です。

司馬遼は、昭和5510月に須田画伯と九頭竜川沿いを上下しています。

朝、京都駅0番ホームから658分発の特急サンダーバードに乗り福井駅へ。福井駅からえちぜん鉄道に乗り換え「勝山駅」についたのが948分。

ここから九頭竜川を渡り、勝山の町を散策しました。

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勝山は、中世から戦国にかけての軍事的要所として城が築かれ城下町が形成されました。現在の市役所あたりに城があったそうです。また勝山の町散策後に訪れる、中世に巨大な勢力を誇った「平泉寺」の寺内町として栄えた町でもあります。

現在「本町通り」には、豪雪に耐えるように深い軒に太い「登り梁」を掛け、それに「母屋」をのせたこの地方独特の大型の商家が結構残っています。

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その本町通りには、司馬遼が泊まった400年続く老舗の料理旅館「板甚(いたじん)」がありました。私もここを宿にしたかったのですが連休ということもあり予約でいっぱいでした。

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町を散策し、昼は越前名物の「おろしそば」と勝山の地酒「一本義」をいただき、午後は今回の目的地の一つである「白山平泉寺」に向かいました。

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「白山平泉寺」は、私は14年ぶりですが妻は初めてです。

「白山平泉寺」は、717年に越前の僧「泰澄(たいちょう)」によって開かれたとされています。

白山信仰の禅定道(ぜんじょうどう)は、美濃側、加賀側、越前側の三つの道がありますが、その越前側の拠点としてここに山伏が集まり、平安時代後半には天台宗比叡山延暦寺の傘下に入り一大宗教勢力となりました。

戦国時代には、四十八社、三十六坊と六千の坊院が建ち並ぶ宗教都市で、広大な寺領を持ち、僧兵は八千を数えたと伝えられています。

ただ司馬遼は本の中で「中世、平泉寺は悪僧の巣窟でもあった」と綴っています。

その宗教都市は、1574年に一向一揆の攻撃を受け全山が焼失してしまいました。

そして明治の始めに神仏分離令に基づき寺号を廃して「白山神社」と改められました。

禅定道の入り口にあたる「菩提林(ぼだいりん)」。

二百数十年生と思われる老杉がうっそうとした森を形成しています。

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舗装された道の横には、苔むした当時の石畳が続きます。

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いつの時代の石仏か、深い緑にとけこんでいました。

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坂道を登り切った所で視界が開け駐車場や真新しい建物が現れました。

私が14年前に訪れた時には、確か店なども無かったものです。また当時は会う人はちらほらだったのですが、この日は観光客が結構訪れていました。地元の人に聞くと数年前に吉永小百合さんのJR東海?のポスターの写真がここで撮られたとのこと、それ以来観光客が増えたそうです。

そのポスターの背景となった参道。

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幸い拝殿前のこの風景は、14年前と変わりませんでした。

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平成元年から始まった発掘調査では、白山神社境内から数百メートル離れた山林や田畑の下から、坊院跡(僧侶の住居跡)や縦横に張り巡らせた石畳が発見され、一部坊院の門・土塀が復元されていました。

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この日は勝山で宿をとり、翌日はバスで大野へと向かいました。

今回の旅でもう一つの目的は、大野の山里にある「宝慶寺(ほうきょうじ)」という寺に行くことです。

司馬遼が「越前の諸道」の旅で最初に向かったのが「宝慶寺」です。本の中でも司馬遼は、今も寺があるかどうか、ともかく地図を見ながら「宝慶」という村の地名を頼りに向かっています。14年前私もその寺に行きたくて越前池田から宝慶寺に向かったのですが、険しい山道を走り、結局道がわからないまま大野の町入ってしまいました。

今回は、地図で寺の位置を確認し大野でレンタカーを借り走りました。そして美しい杉の林を抜け今回は何とか宝慶寺につくことができました。

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司馬遼も何とか宝慶寺についたとき最初に出くわしたのは、「杉木立のはてにあった粗末な四脚門で、その門だけが、光のなかに浮かんでいた」と綴っていますが、いまは真新しい四脚門が浮かんでいました。

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宝慶寺は700年前に、「寂円禅師」によって開かれました。寂円禅師は中国の宋朝の人で、日本から宋に渡った道元禅師(永平寺の開祖)とともに、如浄禅師のもとで修業を続けられました。その後、日本に戻った道元禅師をしたって来日し、常に道元禅師に従いました。

寂円禅師は、道元禅師の死後この山に入り、如浄・道元禅師の禅風をひとり守り93歳まで生きられたそうです。

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今は、曹洞宗の道場として何人かの雲水がここで修業されています。

曹洞宗本山永平寺は観光客あふれかえっていますが、ここは静寂が保たれています。

ちょっと気になるのは、寺の麓で造成工事が行われていたことです。もしかして大きな駐車場を造っているのでは?

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また境内には、今は廃墟となった門前の宝慶村の茅葺の民家が1軒移築されていました。

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この後大野の町に向かったのですが、平野では可憐なソバの花が畑を白く染めていました。

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by y-tukide | 2016-10-17 10:19 | 街道を行く

初瀬街道 大和朝倉から長谷寺を行く

この日、妻と「初瀬街道(はせかいどう)」を近鉄大阪線の桜井から長谷寺を参拝し榛原へと歩く予定をしていたのですが、急に孫娘を見なければならないことになりなり、コースを短縮し3人で初瀬街道を行くことにしました。

朝9時ごろに近鉄大阪線の大和朝倉駅に降り、ここから長谷寺へと向かいました。

5歳の孫娘にとっては初めての長距離ウォーキング体験です。

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大和朝倉駅付近の初瀬街道の町並み。

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玄関に「杉玉」が吊るされた立派なお宅。造り酒屋さんだったのか?

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街道筋のこのあたりは、うれしいことに結構古い建物が残り風情ある町並みが続きます。

この建物も、よく手入れされています。

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街道沿いの田園風景は、秋そのもの。

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ところがこの日は台風18号の影響か気温は30度を超える蒸し暑い夏日。

5歳の孫娘にとっては、ちょっときつい初体験です。

家の陰でちょっと休憩。

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「黒崎」という集落を歩いていると街道の左側に立派な石の鳥居があり、その先のR165線を越えたところに「白山神社」という古社があります。

この辺りは第二十一代雄略天皇が営んだ「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」の伝承地だそうで、境内には万葉集の巻頭を飾る雄略天皇が読んだ歌碑が建立されています。

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黒崎集落に建つ、軒が本瓦葺で大和格子のこの建物、いい建物ですが地元の人に聞くと現在は空き家だそうです。

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集落を抜けたあたりで休憩も兼ねて「お絵かきタイム」。

妻が、ただ歩くだけでは孫娘かわいそうと考え、好きなお絵かきノートを持参したもので、彼岸花を色鉛筆で描いていました。

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そして押し花も。

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この先はR165線と交わり歩道を歩きます。大人にとっても自動車道路を歩くのは苦痛で倍疲れます。

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旧街道はR165線から別れ、「出雲」という集落に入ります。

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集落内には「十二柱神社(じゅうにはしら)」という神社があります。

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その境内にある説明書きによると、この出雲という集落は、日本の国技である相撲の始まりである、出雲国の勇士「野見宿禰(のみすくね)」と大和国の「当麻蹴速(たいまのけはや)」が角力(相撲)して野見宿禰が勝ち、その垂仁天皇に仕えこの地にすんだと記されていました。

そのいわれからか境内の狛犬の台座は、4人の力士が支えていました。

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出雲集落を後にさらに進んだのですが、孫娘はかなりばててきたので昼飯を取ることにしました。たまたま長谷寺参道手前に孫の好物のラーメン屋があったので入ったのですが、注文するなり「ラーメンがきたら起こして!」というなり寝入ってしまいました。

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店のご夫婦が、暑い中かわいそうにと大変気を使ってくださり、いろいろ便宜を図ってくださいました。そして起きて食事をした後も孫にリンゴむいてくださったり、栗を土産にといただきました。

孫娘が店で描いた栗の絵といただいた栗を持っての記念撮影。

大変お世話になりました。ありがとうございました。

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そしてこの店で真心と英気をいただきこの日の最終目的地である「長谷寺」へと向かいました。

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長谷寺では、あの長い階段を跳ねるように上って行ったのには驚かされました。

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花の寺の長谷寺、紅葉もはやいこの季節、花も無く唯一「きんもくせい」がかぐわしい香りを放っていました。

今回の街道を行くは、記憶に残る珍道中となりました。

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by y-tukide | 2016-10-03 17:47 | 街道を行く

初瀬街道 阿保宿から二本木宿を行く

初瀬街道は、大和方面から伊勢を結ぶ街道で大和の初瀬から名張を経て青山峠を越え松坂に至り、伊勢神宮に詣でる伊勢街道の一つの道です。

その初瀬街道を6月の初めに榛原から名張の「やなせ宿」まで歩き、その後も近鉄大阪線の青山駅近くにある「阿保(あお)宿」まで歩いたのですが、7月初めのこの日は「阿保宿」から「二本木宿」へと街道を行くことにしました。

「阿保宿」は、江戸時代のはじめ藤堂藩から「上野」「名張」とともに商いを許され、商家や旅籠が軒を並べにぎわったそうですが、今は静かなたたずまいの町です。

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宿場近くの鎮守の森の中にある「大村神社」。

桧皮葺の宝殿は、国の重要文化財に指定されています。

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畔の草がきれいに刈られた田園風景。

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小さな集落の中を行きます。

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街道歩きをしていて怖いのは、歩道のないトンネルです。

幸いこのトンネルには歩道がありました。

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そして「伊勢地(いせぢ)」宿」に。

宿場の入り口の野仏。

相当古いものでしょうか、かなり風化しています。

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「伊勢地宿」は、初瀬街道最大の難所といわれる青山峠の西麓の宿場で、20軒ほどの旅籠が街道沿いに軒を並べ、初瀬街道で最もにぎわった宿場だったそうです。

「大和屋」という屋号の元旅籠。

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宿場の中央には、文政11年(1828年)に建てられた常夜灯が建っています。

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この建物には、「とくだや」という看板が玄関先に掛けられていました。

明治の末期まで旅籠を営んでいたそうです。

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宿場の家並み。

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なつかしいこのポストは現役で活躍しています。

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街道はここから青山峠へと続きます。

本来ならばこの道を進むべきなのですが、この時期各地で「クマ出没」のニュースが流れていたことと、7月初めの炎天下の峠越えはちょっときついと判断し、この区間はズルをして電車で峠を越えることにしました。

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そして近鉄大阪線の「伊賀上津駅」から乗り、二駅目の「東青山駅」で降り、青山峠の東の入り口にあたる宿場「垣内(がいと)宿」に向かいました。

垣内宿を流れる清流垣内川。

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私はズルをしましたが、難所の青山峠を越えてきた旅人はこの風景にさぞかし癒されたことでしょう。

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垣内宿の民家の玄関先に屋号入りの暖簾がかけられていました。

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美しい風景の山間の宿場「垣内宿」を後に、

初瀬街道をさらに「二本木宿」へと向かいました。

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by y-tukide | 2016-09-20 11:19 | 街道を行く

初瀬街道 榛原から名張を行く

初瀬街道は、大和方面から伊勢を結ぶ街道で大和の初瀬から名張を経て青山峠を越え松坂に至る伊勢街道の一つの道です。峠が多く険しいが伊勢への最短道である「伊勢本街道」と榛原で分岐します。
初瀬街道はこれまでに車で巡ったことはあったのですが、今回は榛原から歩いて初瀬街道を行くことにしました。
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初瀬街道と伊勢本街道の分岐点には道標があり、その向かいに明治10年頃まで旅籠を営業していた「あぶらや」主屋が建っています。数年前に改修工事がされ宇陀市指定文化財に指定されています。ここには伊勢の国松坂出身の江戸時代の国学者である本居宣長が泊まった記録などがあります。
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「あぶらや」から国道165線を越えると趣のある街並みが続きます。
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その一角にツキデ工務店が7年前に再生工事をさせていただいたN様邸住宅があります。
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旧街道は途中で並行して走る国道165号線に交わります。国道を30分程歩き「天満台東口」というところを右折すると、室生ダム沿いに整備された緑地ひろばあります。その一角に自然石に彫られた「ぬれ地蔵」祀られています。
裏山からの水が落ち濡れていることからその名が付けられ、ダムが増水すると裾まで水没するそうです。
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このあたりからのどかな風景が広がり、とても気持ちよく歩けます。
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初瀬街道とほぼ並行して近鉄大阪線が走っています。よほど疲れたら最寄りの駅で電車に乗れるので気分的にかなり楽です。
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室生口大野駅付近には風情ある民家が結構あります。その中のこの立派な民家、なんとデザイン事務所の看板がありました。
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このあたりから山道を上り小さな峠を越えます。
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峠道を下り小さな集落を抜けると「三本松宿」に入ります。
ここには8年前にも訪れていますが、道を挟んで庭園のある元本陣であった「ぬしや」と正面の妻入りの大きな建物が建替えられていました。
8年前と現在の写真。
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とはいえ元旅籠の「ますや」の建物などが残り宿場の風情は今も感じられます。
「ますや」の端に建つ道標には「是より西 萩原二里六町」と「是より東 名張二里十二町」と刻まれ、ここが榛原と名張の中間であることを示しています。
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三本松宿を後に165号線沿いの「道の駅」で食事をとりひと息入れて、宇陀川沿いの道を進みます。
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「鹿高」という集落の中を歩いていると玄関の差し鴨居に八十八歳と名前が記された「しゃもじ」が掛けられていました。これはこの地方の習わしで八十八歳の米寿に手形としゃもじに名を書き玄関の差し鴨居に掲げ、長者を尊び祝うそうです。
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実は8年前にここに訪れた時にもそれを見つけ、これはめでたいと私が撮った写真にちょっと手を加え、2009年の「我社の年賀状」に使わせていただきました。
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街道は赤目口駅近くの集落の中を走ります。
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そしてようやく名張に着きました。この日はこれまで。
榛原駅に朝8時ごろに降り街道を行き、名張駅にたどりついたのが午後4時ごろ、
よく歩きました。
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by y-tukide | 2016-07-04 10:45 | 街道を行く

因幡街道(智頭往還)を行く 志戸坂峠を越え智頭宿へ

因幡街道を行く二日間の街道歩き、初日は「平福宿」から「大原宿」を歩きました。そしてその日は、大原宿の先の「あわくら温泉」にある国民宿舎あわくら荘に泊まり、温泉で疲れた足を癒しました。
そして翌日は「志戸坂(しとさか)峠」を越え「智頭(ちず)宿」へと向かいました。
峠越えの麓にある坂根集落では、田植えに向けての農作業が行われていました。そこで作業をされている年配の方に道を聞くと、丁寧に教えていたのですが、最後に一言「熊に気を付けてよ !」
準備万端、熊よけの鈴を忘れず持ってきています。
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志坂峠は、大原宿と智頭宿の間のちょうど国境(現在の岡山県と鳥取県の境)であり、江戸時代には、参勤交代の要道であり非常によく利用された道です。
「三十三曲り」と呼ばれた難所もあり、冬は雪が深く、牛馬も通わなかったようです。
今の峠道は比較的よく整備されていて、これまでに歩いた峠道に比べ幅も広く、昔の石垣もよく残っていて「日本の道百選」にも指定されています。
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途中、峠道の真ん中で真っ黒な蛇が日向ぼっこ。
今年初めて見る蛇です。
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標高584mの志戸坂峠、熊にも遭遇することなく超えることができました。
峠を越えると「駒帰(こまがえり)」集落に入ります。名前から察することが出来るように志戸坂峠は当時、険しくて馬も引き返す難所だそうです。
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駒帰集落から清流が流れる千代川沿いの道を下って行くと、左手に落差50mの「副ヶ瀧」が現れます。
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さらに川沿いを行くと「魚の棚」という景勝地があります。
約280年前の江戸時代に書かれた文献に「絶景アリ」と紹介された風景は、今も変わりません。
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新緑の中、清流を眺めながら街道歩きは、疲れを感じさせません。
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道をさらに行くとのどかな風景が広がる集落に入ります。
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街道は、集落を抜け進むと旧国道R373号と合流します。
旧国道は、無料の鳥取自動車道が山間部を並行して走っているので、通過交通が無く地元の車だけなのでまったく走る車を見かけません。
そして373号線沿いに木造の小学校が現れ「山郷(やまさと)小学校にようこそ」と英語で書かれた文字が目を引きます。
この校舎は閉校後も地域の憩いの場として活用されているようです。
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街道は、大内という集落に入ります。その集落の山側を走る智頭急行の「恋山形駅」というなんとも周囲の風景と似つかない色の駅がありました。
なんでも日本には四つの「恋の駅」があるそうです。
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街道沿いに建つ六地蔵。
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ようやく「智頭宿」に入ります。
智頭と言えば「智頭杉」が有名です。私は10年前にも車でここを訪れています。
智頭宿の街並み。
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智頭宿の中で威容を誇る「石谷家住宅」。
敷地面積3000坪、広大な日本庭園を中心に四十の部屋と七棟の蔵をもつ大規模木造建築です。国の重要文化財に指定されています。
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母屋の入口をくぐると、高さ14mの吹き抜けがあり、松の巨木の梁組が豪壮な雰囲気を醸し出しています。
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智頭宿は因幡街道(智頭往還)と岡山に向かう備前街道が交わり、人・物が流通する拠点です。
その備前街道沿いには、以前歩いた木曽中山道で見かけた、旅人の乾いたのどをいやしてくれる「水舟」がここにもありました。
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by y-tukide | 2016-05-23 09:00 | 街道を行く

因幡街道を行く 平福宿から大原宿へ

因幡(いなば)街道は、播磨国(はりまのくに)姫路(兵庫県姫路)と因幡国(いなばのくに)鳥取(鳥取県鳥取市)を結ぶ街道で、江戸時代には鳥取藩などが参勤交代で通った道です。
古くは鎌倉時代、源頼朝によって隠岐に流された後鳥羽上皇やその後も後醍醐天皇が無念の思いを抱き通った道でもあります。
この日は近鉄大久保駅を6:14に乗り、京都から新幹線で姫路へ、ここでJR山陽本線に乗り換え上郡へ、ここから智頭急行のワンマンカーに乗り平福駅に9:05に到着。
ここ「平福宿」から「釜坂峠」を越え因幡街道を「大原宿」に向かって歩きました。
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平福は、戦国のころ利神(りかん)山に「利神城」という山城が築かれ、その城下町として整備されたのが始まりです。
当時は東西300m、南北500mにも及ぶ広大な山城で、山頂に三層の天守があり別名「雲突(くもつき)城」と呼ばれていたそうです。
今は朽ち石垣も崩れ、つわものどもの夢の跡となっています。
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その後平福は、因幡街道の宿場町として発展しました。
宿場の街並みは道に面した家並みが普通ですが、平福は道側だけではなく、背後の作用川に沿って並ぶ石垣や土蔵、川座敷(川を眺める座敷)がある建物が川面に浮かぶ川端風景が特徴です。
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私は、10年前にも平福を訪れています。その後平成21年の豪雨をもたらした台風9号で作用川が氾濫し、多くの犠牲者と甚大な災害が引き起こされたことをニュースで見て大変心配をしていたのですが、元の美しい風景の街に復旧されていました。
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格子や連子窓が並ぶ街道の街並み。
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平福宿の南の入口付近には、江戸時代、平福藩の刑場がありました。この六地蔵は、刑場跡に供養のために建てられたものです。
またこの地は「宮本武蔵決闘の地」でもあります。武蔵が13歳の時、有馬喜兵衛という剣豪に初勝負をいどみ、一刀のもとに倒したと言われています。
そしてその武蔵の出生の地と言われている「宮本村」が、因幡街道の「釜坂峠」を越えたところにあります。
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平福宿を後に、街道は緩やかな坂道が続きます。
周辺にはのどかな風景が広がり、振り返れば遠くに利神城跡と平福宿が見えます。
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野には花々が咲き、山は新緑に萌え、風もさわやかで気持ちのいい街道歩きです。
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2時間ほど歩き、途中弁当を食べ「釜坂峠」へと山道を行きます。
さほどきつくない山道を上って行くと峠の手前に朽ちた家屋がありました。
当時このあたりに、峠茶屋があったのであろうと思いめぐらせ峠を越えました。
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釜坂峠を越え、宮本武蔵の出生の地「宮本村」へと下って行くと「一貫(いっかん)清水」という湧水の水場があります。その名は、旅人が立ちより「ほんに一貫文(一両の1/4)の値打ちがある」と言ったところからついた名だそうです。
武蔵もふる里を後に、峠に向かう時この水を飲んだことでしょう。
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峠道を下りた村の入口に「武蔵神社」があります。神社の祠には小説「宮本武蔵」の著者「吉川英治」の名が記された絵馬が奉納されていました。
また境内には武蔵と両親の墓もあります。
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宮本村で小休止し、次に「大原宿」へと向かいます。
吉野川沿いを歩き1時間ほどで「大原宿」に入ります。
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大原宿は、播磨・因幡・美作(みまさか)と三国を結ぶ交通の要所として、古から宿場として栄えました。そしてここには参勤交代で藩主らか宿泊する本陣・脇本陣をはじめ十数軒の旅籠があったそうで、今もその面影を色濃く残しています。
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鳥取藩三十二万石池田侯が参勤交代で宿泊した「大原本陣 有元家」。
有元家は、二百年前の本陣の遺構を今日まで残しておられます。
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街道の両側の側溝の上に花が飾られ、街行く人の目を楽しませてくれます。
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この日はこれまで。この季節の天気に恵まれた街道歩きは最高です。
宮本村では、青空に鯉のぼりが泳いでいました。
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by y-tukide | 2016-05-09 09:00 | 街道を行く

室生古道を行く

この日、久しぶりに妻と二人で古道歩きをしました。
室生古道(むろうこどう)は、伊勢本街道の高井宿から仏隆寺(ぶつりゅうじ)→唐戸峠→西光寺→室生寺→門森峠→大野寺→近鉄室生口大野駅を行くコースです。
早朝、近鉄大阪線「榛原駅」を下車。
この榛原は、かつて大阪や大和から「お伊勢参り」に行く二つの街道の分岐点として交通の要所でした。一つは峠が多く険しいが伊勢への最短道である「伊勢本街道」。もう一つは距離はやや長くなるが比較的上り下りが少ない青山越えの「伊勢街道(初瀬街道)」です。
その分岐点である札の辻には道標が建っています。
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そしてその青山越えの伊勢街道沿いには、ツキデ工務店が7年前に古民家再生工事をさせていただいた
N様邸住宅があります。
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さて榛原宿から伊勢本街道を高井宿へと向かいます。高井宿を過ぎ仏隆寺へと進むと間もなく仏隆寺に向かう道と伊勢本街道が分岐します。ここであえて遠回りになるのですがもう少し伊勢本街道を行き、途中から折れ仏隆寺に行くことにしました。
そして右に折れ急坂の山道を行くと16本の杉が一株になり幹回り31mを越える巨木「高井の千本杉」が現れます。
今も根元からは水が湧き、旅人の喉をいやしてくれます。
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かつて千本杉あたりまでの間には、旅籠や茶店があったそうで、その一つが「大野屋」という屋号の津越家住宅。大和棟の立派な家です。
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津越家を過ぎたあたりから伊勢本街道を左に折れ仏隆寺へと向かいます。
途中、のどかな田園風景が広がり、まさに日本の原風景を見ることが出来ます。
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回り道をして「仏隆寺(ぶつりゅうじ)」に到着。
この小さな山寺の山門に一直線にのぼる石段の中ほどに、樹齢900年という県下最古最大の桜の木があります。この日は幸運にも花は満開。これまでに仏隆寺には何度か訪れていますが、花を見るのは初めて、さすが見ごたえがあります。
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境内の樹齢450年の山梨の花も満開で山寺は花一色。
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仏隆寺を後に唐戸峠へ向かいます。峠まで30分程急な登りの山道が続きます。
息をきらして着いた峠には、小さな祠に「役行者(えんのぎょうじゃ)」が祀られていました。
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ここからは舗装された林道を下って行きます。
1時間ほど歩くと「西光寺」に着きます。ここの桜もすごい!
自宅付近の桜は、散っているのに仏隆寺をはじめこのあたりは高度も高いこともあり、この日が見ごろ最高です!
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樹齢400年というしだれ桜。
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郷愁を覚えるのどかな室生の山里風景。
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山里を下り室生寺の門前で遅めの昼飯を食べ、室生川にかかる朱塗りの太鼓橋を渡り、久しぶりの室生寺に参拝。
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本堂横の石段の上の見上げると五重塔が拝めます。
平安時代初期の建立といわれ、室生山中最古の建築です。平成10年の台風で巨木が倒れ大きな損傷を受けたのですが平成12年に修復されました。
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時刻は午後2時過ぎ、室生寺から「門森峠」を越え「大野寺」を経て帰路につくことにしました。
6キロほどの山道は杉・桧が生い茂り、石畳の山道はコケが蒸して滑りやすく、石がごろごろ転がる道が延々と続き、歩きにくく倍疲れました。
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ようやく大野寺に着きました。
寺の前を流れる宇陀川の対岸の巨岩に彫られた磨崖仏。
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大野寺のしだれ桜。
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この日は、妻も私も桜を堪能しました。
歩き甲斐のある「古道を行く」でした。
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by y-tukide | 2016-04-18 09:52 | 街道を行く

北国海道 近江中庄から塩津を行く

「北国海道を行く」今回の街道歩き、9月10日に大津の「札の辻」を出発し琵琶湖の湖西の道を寄り道しながら歩いて、6日目となりました。
この日は妻と二人で北国海道の最終の目的地である、琵琶湖最北端の「塩津」へと向かいました。
朝JR近江中庄駅で降り、湖畔の道を歩き「海津」の街並みに入ります。
私はこれまでに海津には何度か訪れています。
海津は、北国と畿内を結ぶ交通の要所で港町・宿場として栄えた町です。
海津と敦賀を結ぶ「北国街道七里半越」(現在の161号線)を馬で北国の物資を国境(くにざかい)の峠を越え海津に運び、丸子舟(まるこぶね)に積み込み、大津の港に送られました。
海津の街並み。
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江戸時代の港跡。
当時この川は琵琶湖の内湖とつながり、内湖が船溜りなっていたそうです。
内湖は現在一部石積みを残すだけで埋め立てられ小学校となっています。
明治期には蒸気汽船が発着していたそうです。
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杉の葉で作られた酒林(さけばやし)が吊るされた造り酒屋さん。
海津沖に浮かぶ信仰の島、「竹生島」の名の地酒が売りです。
店先にはいつ来ても古い酒樽にきれいな花が飾られています。
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海津の風景である湖岸に築かれた石垣は、江戸時代、大波から町を守るために、時の代官が陳情し造られたものです。
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ここ海津大崎は桜の名所で春には湖岸を5キロ程にわたり600本もの桜が咲きほこります。
この写真は、写真は2002年4月に訪れた時撮ったものです。
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右手に竹生島、「菅浦」集落がある葛籠尾崎(つづらおさき)を見ながら気持ちよく湖岸を歩きます。
途中、湖岸の浜で昼の弁当を食べていると突然天候が一変し雨が降り出しました。
このあたりは天候が変わりやすい地域で、「弁当忘れても傘忘れるな」といわれる北陸の気候です。
私達は、弁当は持ってきて傘を忘れたものですから、あわてて近くのペンションに逃げ込み、コヒーを飲み雨の上がるのを待つことにしました。
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しばらくすると雨が上がり「大浦」の集落へと向かいました。
大浦の集落に入ると「みつとし本舗」というピーナツ入りの煎餅を売っている店があります。今で3代目とか、建物は築140年だそうです。
土産に買って食べたのですがおいしい煎餅でした。
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大浦は古くは万葉の時代より、北陸と港を結ぶ人と物資の集散地として、活気を呈していた港です。その輸送手段とした「丸子船」が活躍していました。
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ここには現存する「丸子船」を展示した「北淡海・丸子船の館」があります。
丸子船は、二つに割った丸太を胴の両側に付けた琵琶湖独特の船です。
最盛期の江戸時代には1400隻が湖上を往来していたそうです。
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大浦の港のジオラマ。
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大浦の後に「塩津」に向かいます。
塩津の手前の「祝山」集落の中でひときわ目立つ茅葺屋根の民家は、元庄屋だった「辻家住宅」です。国の重要文化財に指定されています。
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塩津の街並みに入ります。塩津は琵琶湖の北端の港、海津・大浦の港の中で最も北に位置する港です。
古来より塩津も湖上交通の要所として、都と北陸・蝦夷地を往来する旅人や物資輸送の集積地として栄えた地です。
私は今年の6月初めの休日、塩津から沓掛→深坂古道→追分→疋田(ひきた)→敦賀へと「塩津海道」を歩きました。
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塩津の浜の手前で偶然、国道8号線塩津バイパス工事に伴う、塩津港跡の遺跡発掘調査が行われている現場に遭遇しました。
聞くと平安時代後期の本格的な港湾施設の遺構だそうで、高度な土木技術を使い、埋め立てて造成された港湾施設としては国内で初めてだそうです。
また遺跡からは12世紀の石のすずりや漆塗りのお椀、女性の整櫛用具なども出土したそうです。
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ようやく「北国海道を行く」今回の最終目的地である塩津の浜につきました。
歴史ロマン漂う琵琶湖最北端の塩津の浜、鏡のような湖面が印象的でした。
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by y-tukide | 2015-11-30 10:00 | 街道を行く

北国海道 安曇川から近江中庄を行く

前回は海道をはずれ、いろいろ寄り道をしたので、この日は海道に戻り北へと進むことにしました。
朝8時すぎにJR湖西線安曇川駅に降り、のどかな風景を眺めながら海道を歩き始めました。
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「南市」という集落に入ります。
南市は、地名が示すように戦国時代には、「市」が開かれ日本海の海産物や川魚を中心にいろんな商品が取引されていたそうで、「南市商人」が活躍した地です。
この日は町おこしのイベントが行われるとのことで、朝早くから町の人達が準備に追われていました。
洋館風の建物は、「旧安曇川郵便局」です。
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海道は、湖西地方で最も大きな川である安曇川を渡ります。
かつては安曇川の堤防補強のために植えられた竹を使って、扇子の骨の部分の「扇骨」が農閑期の副業としてこの地域の伝統産業の一つになっていました。
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安曇川を越えると、昔宿場であった「川原市」集落に入ります。
このあたりには、ベンガラ塗りの立派な民家や蔵が多くみられます。
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さらに進むと国道161号線と交わり、国道を越えると湖畔にでます。
このあたりの湖畔には水鳥が多く集まり、水鳥を観察できる新旭水鳥観察センターがあります。
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水鳥を見ながら湖畔を歩くと「木津(こぅつ)」集落に入ります。
木津は「古津」ともいい古くからの港町で、港跡には常夜灯が建っています。
当時は、若狭方面からの物資がここで船積みされ、湖上を大津、京都へと運ばれたのです。
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木津を過ぎると「今津」の街に入ります。「今津」は「木津=古津」に対し、新しくできた「津=港」という意味だと想像できます。
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海道筋にある創業300年といわれる「丁子屋(ちょうじや)」旅館、ここの鴨鍋はうまいと聞いて、一度食べてみたいと思っているのですが、なかなか機会に恵まれません。
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ちなみにこの日の昼食は、近江今津の駅前にある川魚料理の店「西友」で「ひつまぶし」をいただきました。
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今津の街には、明治に宣教師として日本に訪れ、建築家として明治・大正・昭和に多くの西洋建築を手がけたアメリカ人のヴォーリズの建物が3軒残っています。
これはそのうちの一つである教会です。
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海道は、住吉神社を過ぎたところから西に折れるのですが、そのまま直進すると「日本の白砂青松百選」に選定されている今津浜の松並木が「マキノ町」まで永遠5kmほど続きます。
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さざ波が立つ湖上には、古来より人々の信仰を集めてきた「竹生島」が浮かび、桜の名所の海津大崎や葛籠大崎(つづらおおさき)が望めます。
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この日はマキノ町まで歩き「JRマキノ駅」から帰ろうと考えていたのですが、みている間に時間が過ぎ、帰りの電車に間に合いそうにないので、一つ手前のJR近江中庄駅から乗ることにしました。
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by y-tukide | 2015-11-24 12:21 | 街道を行く

北国海道 勝野から新旭を行く

この日JR湖西線近江高島駅に降りたのが朝8時。
まずは駅前にある今は少なくなった琵琶湖の内湖である「乙女ヶ池」へ。
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この地は、古くから畿内と北陸地方を結ぶ交通の要所で、戦国時代織田信長は、戦略上の重要拠点として甥の織田信澄(のぶずみ)に命じて内湖を堀とした水城、大溝城を築かせました。
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―高島歴史民俗資料館より―

今は、乙女ヶ池の北に天守台跡の石垣の一部が残っているだけです。
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現在の高島勝野の町並みは、江戸時代に形成された城下町が残ったもので、築300年を超える民家もあります。
またこの町は発酵食の町でもあります。滋賀県で唯一の酢の醸造所や造り酒屋、麹屋、味噌屋、鮒寿司屋があり、昔は造り酒屋が7軒もあったそうです。
海道沿いにある「萩乃露」は、私が好きな酒で以前は晩酌にいただいていました。
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道を北に進み「出鴨」の交差点の左に折れ、「宿鴨」集落のはずれにある「高島歴史民俗資料館」に寄りました。
この資料館の北側には「稲荷山古墳」があるのですが、そこから出土した貴重な副葬品類が展示されています。
稲荷山古墳の被葬者は、古事記・日本書紀から第二十六代継体天皇を擁立した、近江「三尾氏」の族長墳墓であろうと推測されているそうです。
出土した家形石棺の中の副葬品は、朝鮮半島三国時代の「新羅(しらぎ)」の王陵級の古墳から出土するものと類似しており、朝鮮半島との交易を示しているのではと考えられています。
ちなみに古墳から北に「天皇橋」を越えた「三尾里」というところで継体天皇が出生されたそうで、このあたりには古代の遺跡が数多くあります。
高島歴史民俗資料館資料より。
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今はのどかな田園風景が広がる古代ロマンの地「三尾里」。
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田園風景を過ぎ、海道は北へと進むのですがここで寄り道し、近江聖人「中江藤樹」の郷へ行くことにしました。
海道を右に折れJR 湖西線安曇川(あどがわ)駅を越え湖岸に向かって進むと「日本陽明学の祖」であり「近江聖人」としてたたえられた「中江藤樹」生誕の地「小川」に着きます。
人々を等しく愛し、庶民のために開いた日本最初の私塾である「藤樹書院」があります。
現在の建物は明治十三年に焼失ものを二年後に再建されたものだそうです。
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敷地の前には水路があり、清らかな流の中を鯉が泳いでいました。
このあたりは安曇川の扇状地で湧水が豊富な集落です。
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近くには、中江藤樹記念館や中江藤樹墓所、そして中国の明代の儒学者「王陽明」の生地である中国浙江省余姚市(よようし)と中江藤樹の生地である滋賀県安曇川町の友好交流を記念して建てられた「中国式庭園陽明園」があります。
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ここ安曇川は、扇子の骨の部分の「扇骨」が伝統産業の一つになっています。
江戸時代中期に安曇川の堤防補強のために竹を植えることが農民によって行われ、農閑期の副業として勧められたものだそうです。
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道の駅「藤樹の里あどがわ」で食事をとり、もう一カ所寄り道することにしました。
隣町の新旭町にある「生水(しょうず)の郷 針江」の集落です。
集落の中を水路が巡りその水を生活用水に利用したシステム「かばた(川端)」が有名です。
昆虫・里山の写真家として著名な「今森光彦」さんが撮影し、2004年1月にNHKハイビジョンで放映された映像詩『里山・命めぐる水辺』の舞台となったところです。私もあの映像を見て感動し、過去にも訪れています。
ちなみに今森光彦さんが大津市迎木で活動拠点とされているアトリエは、22年前に奈良の建築家の設計監理でツキデ工務店が施工させていただきました。
現在も仕事を通じてお付合いさせていただいています。

針江集落の各家の敷地や家の中にある「かばた」。
約25mの深さに打ち込まれた鉄管から湧水があふれ出、飲み水としも活用されますが「かばた」では洗い物がされ、洗い物のかすは鯉が掃除してくれ水が浄化されます。
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水の温度は年間を通じて13℃程、夏にはスイカや飲み物が冷蔵庫代わりに冷やされます。
この写真は11年前の8月に訪れた時の写真です。
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その時期には清流にしか育たないバイガモが小さな花をつけていました。
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この日は寄り道つづきの海道歩きでした。
集落内にある豆腐屋さん、昔ながらの木綿豆腐が湧水に、
帰りに土産にしたかったのですが荷物になるので断念しました。
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by y-tukide | 2015-11-16 13:34 | 街道を行く