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カテゴリ:かいわい( 29 )

宇治かいわい 黄檗山万福寺

この日、自宅から56kmのところにある、黄檗山万福寺(おうばくさん まんぷくじ)に、天気もいいので歩いて行ってきました。

平等院の南門の前を通り、宇治川の「喜撰橋」を渡り「塔の島」へ。

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朝の宇治川は、すがすがしく、この数日来の朝夕の冷え込みで、木々も色づき始めました。

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「朝霧橋」から望む、平等院「鳳凰堂」。

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「朝霧通り」を歩き、宇治橋を越えたあたりに、現在発掘調査が行われている豊臣秀吉が築いた「太閤堤」の遺跡があります。

太閤堤は、天下統一を果たした豊臣秀吉が四百数十年前に、伏見城を築城した際に伏見の方に宇治川の流れを導くために行った、宇治川の付け替え工事です。

桃山期の治水技術の高さを知る貴重な文化財として、平成21年に国の史跡に指定されました。

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これまでに発掘された400mほどの護岸は、保存のために埋め戻されましたが、護岸に設けられた水流対抗施設「石だし」(水制)や松杭が現地で再生されていて見ることができます。

「水制」は、護岸に石などを積み突出し河川の水の勢いを弱め護岸が削られるのを防いだり、流れの方向を整えるための工作物です。

以前、岐阜県にある「木曽川文庫」に行って、明治の木曽川・長良川・揖斐川の三川分離の難工事を行った、オランダの土木技術者「デ・レーケ」の説明を受けた時に、この「水制」のことを知り、オランダからもたらされた治水技術だと思っていたのですが、日本でも当時用いられていたことは驚きでした。

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太閤堤を後に、奈良街道を万福寺へと向かいました。

黄檗山万福寺は、江戸時代の1654年に明朝時代の中国から渡来した「隠元禅師」が、開山した寺院で、日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、黄檗宗の総本山です。

儀式作法や建築様式も中国の明朝様式を取り入れられています。

黄檗山万福寺の「総門」。

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「三門」。

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「天王堂」に続く参道。

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弥勒菩薩の化身といわれる「ほてい和尚」。

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守護神である四天王。

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「開山堂」。

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開山堂では、儀式がとり行われていました。

内陣に飾られている幕に描かれている桃も中国様式のものだそうです。

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この門も中国風。

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「斎堂前」にある「開版(魚板)」は、木魚(もくぎょう)の原型となっているものだそうです。時を報じるものとして使われます。

その木魚(もくぎょう)は、隠元禅師が中国から伝えたものだそうです。

隠元禅師は、その他にもインゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなどももたらしています。

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万福寺の本堂である「大雄宝殿(だいほうほうでん)」。

この建物の柱などに東南アジア産のチーク材が用いられています。どのようにして日本に持ち込んだのでしょうか。

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なでかしら、境内に神輿が!

寺の周辺の町内で秋祭りが行われているようです。

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自宅から歩いての万福寺の参拝。

たまにはこうして宇治の街を散策するのもいいものです。

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by y-tukide | 2016-11-07 10:29 | かいわい

奈良 吉野散歩

奈良の吉野へは、これまでに仕事では数えきれないほど訪れていますが、仕事以外でゆっくり吉野を散策したことはあまりありません。

この日、ちょっと見たい建物があるので、そのことも兼ね、吉野に向かい散策することにしました。

その見たい建物とは、国が進める地方創生政策の中で吉野町が今年から取り組むことになった、「目指せ! ふるさと吉野地域の復活!―吉野から木のある暮らしの情報発信 木材産業活性化プロジェクト―」の一つの目玉企画として吉野川の河畔で現在、移築工事が行われている「吉野杉の家」です。

この建物は、東京で行われていた「HOUSE VISION」プロジェクトで展示された、建築家の長谷川豪氏の設計の吉野杉がふんだんに使われた建物です。

完成すると1階は、喫茶コーナーがある憩いの場として、2階は、アメリカの「Airbnb

という組織が運営する宿泊施設として使われます。

秋深まる早朝の吉野川。

この日は秋晴れとはいえ肌寒い吉野でした。

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吉野川の河畔の遊歩道沿いで移築工事が行われている「吉野杉の家」。

吉野町のこのプロジェクトには、ツキデ工務店も地方創生応援税制である「企業版ふるさと納税」で応援させていただいています。

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肌寒い中、建物の前の吉野川で犬が水遊びをしていました。

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建物がある付近には、昭和30年頃まで「いかだ場」があったそうです。「いかだ場」では、吉野川の上流から流してきた小さな「いかだ」を下流の和歌山へ向けて流すために、連結して大きな「いかだ」にする作業が行われていたそうです。

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その後「「吉野鉄道(現在の近鉄電車)」が開通すると、「いかだ場」から少し下流の場所に設けられた貯木場(貯水池)に集積して水中乾燥(水につけて木の水分を抜く)作業をして「原木」のまま貨車で大都市へ直接運ぶようになりました。

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その後、貯木場の周辺に製材所ができはじめ、製材された木材も貨車で運ばれました。

そして貯木場(貯水池)が埋め立てられ、そこに多くの製材所が建ち、一大製材団地が形成されました。その製材団地の一帯を「吉野貯木」と呼ばれています。

その製材所も昭和のある時期から、安い外材に押されかなり減ってきています。

建築を知り、好きな者ならよだれが出るようないい素材がこの地には豊富にあります。

それなのにもったいなくも悲しい話です。

日曜日、木の香りが漂う静かな「吉野貯木」。

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ツキデ工務店が、取引させていただいている「吉野中央木材」さんの土場。

弊社が梁材として使っている百数十年生の杉材が、製材され「桟積み乾燥」し自然乾燥されています。

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先週の水曜日に原木市があった「北村林業」さんの土場。

競り落とされた原木が置かれていました。吉野ならではの風景です。

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この建物は、「坂口製材所」さんの敷地内にある「吉野サロン」。

大阪の「Ms建築設計事務所」さんの設計で6年前にツキデ工務店が施工させていただいた建物です。

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吉野は、古くは神話の世界で神武天皇が東征の時、熊野から吉野を通り大和に行くのに三本足の「八咫烏(やたがらす)」が道案内をしたと伝えられています。

今も熊野と大和を結ぶ街道が走るとともに、伊勢に向かう「伊勢本街道」も走り風情ある街並みも一部に残っています。

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この日「吉野貯木」にある神社の境内で「ゆいつぐむ市」というフリーマーケットが行われていました。

「歴史を紡ぎ、地域を結い、作り手と使い手、親から子へ。残して伝えたい大切なものを結びつける」というテーマの市です。

地元の若い人達が実行委員会をつくり行われていました。

大変盛況で、私も好きな奈良漬けとコットンの靴下を買いました。

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午後は、久しぶりに「吉野山」に向かいました。

途中道端に、吉野杉のチエンソーアートの置物が、「ほしい方はここに電話ください!」との張り紙と共に並んでいました。

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山岳修験者の「役行者(えんのぎょうじゃ)」が開いたと伝えられている修験道の本山「金峯山寺(きんぷせんじ)」の国宝の本堂である「蔵王堂」。

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ここでこんな光景に出合いました。

修験者による蔵王堂の前での護摩法要です。念仏を唱え、ほら貝や太鼓が響く中、護摩木が燃やされます。

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そして最後に、「井形」に組まれた檀の丸太を炭火と共に並べられ、その上をはだしで歩く「行」です。

「心頭を滅却すれば火もまた涼しい」とのことわざをありますが、果たしてどうなのか?

気合を集中し、無念無想の境地にたち歩き渡られます。

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この後「奥ノ院」まで行きましたが、桜の葉は結構紅葉していましたが、もみじはちょっと色づきかけたところでした。

秋晴れに恵まれた「吉野散歩」、いろいろ楽しめました。

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by y-tukide | 2016-11-02 04:45 | かいわい

長命寺かいわい

滋賀県の近江八幡市街地の北側、琵琶湖にせまる長命寺山の山頂付近に、西国三十三カ所第三十一番札所の「長命寺」があります。
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山の麓から本堂へは、800段あまりの長い階段が一直線に続きます。
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石段を登り切った境内には、本堂・三重塔・鐘楼などがあります。屋根は瓦ではなくすべて桧皮葺かこけら葺きで、三重塔の屋根は最近葺き替えられたそうです。
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境内からの眼下の眺め。
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長命寺山の東側には、戦前まで琵琶湖最大の内湖である「大中之湖(だいなかのこ)」が広がっていたのですが、戦後干拓され農地となりました。
そして今は、大中之湖干拓地の南側に残る「西の湖」が琵琶湖最大の内湖です。
西の湖の湖畔にはヨシ原が広がり、冬に刈り取られたヨシを干す風景が見られます。
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ヨシの群生地は水鳥や魚の生息場として重要な役割を果たしているだけでなく、琵琶湖の水質浄化にも大いに貢献しています。
そしてヨシの芽吹きを良くするためにこの時期の風物詩「ヨシ焼き」が行われていました。
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そしてここではヨシ原の風景を楽しむ「水郷めぐり」が名物です。
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春本番です。
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by y-tukide | 2016-04-11 11:00 | かいわい

明石かいわい

先日、お客さんとの打合せに朝から兵庫県の明石市に行ってきました。会社から車で1時間半ほどで行けます。
約束の時間よりかなり早く着いたので山陽電鉄の人丸前駅の北側にある明石市立天文科学館に寄ることにしました。
14階の展望台からは明石の街や淡路島、明石海峡大橋が眼下に眺められます。
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明石といえば「子午線のまち」。
日本の標準時間の基準となる東経135度の子午線のまちです。東経135度線上に天文科学館が建ち、その南側にある人丸駅のプラットホームに表示された線が、まさに地球の赤道に直角に交差する北極と南極を結ぶ両極線です。
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打合せの後、お客さんにお寿司を御馳走になり、せっかくなので私はそのあと「魚の棚商店街」に行ってみました。ここでは日本有数の漁場である明石で捕れた魚を取り扱う鮮魚店や海産物を扱う店が軒を列ねます。
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明石といえば蛸、さすがに蛸を扱う店が多いです。
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ただこの季節は、なんといっても瀬戸内の春の訪れを告げる風物詩「イカナゴ」漁。
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淡路島を含むこのあたりの瀬戸内では、各家庭でイカナゴの佃煮である「クギ煮」がつくられ保存食にされます。
私も土産に買いました。
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帰り道、舞子公園からの明石海峡の眺め。
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by y-tukide | 2016-03-28 12:50 | かいわい

石場寺かいわい

ツキデ工務店の事務所の2階に四畳半の和室があります。
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和室には小さな床の間があり、その床に江戸時代に描かれた「三河万歳?」の絵が掛けられています。
この絵は、滋賀県の近江商人発祥の地の一つである東近江市の「五箇荘」で、私が5年ほど前に偶然手に入れたものです。
絵は、江戸時代後期に「湖鱗楚東」と言う僧が五箇荘の近くにある「石場寺(いしばじ)」に住んでいた時に描いたものです。
「湖鱗楚東」という人は「すこぶる文藻に富、資性淡白で酒悦」。老後は、「人の背に負われ、人家を訪れ、酒はあるか、うまいものはあるかと尋ね、あるという答えがあれば、早速その饗応にあずかり、欣然としてまた人の背に負われ帰るという具合であった」。
というちょっとユニークな人だったようです。
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近江商人屋敷が多く残る「五個荘」には何度か行っていますが、「石場寺」は訪れたことが無く、一度行って見たいと常々思っていたのですが、今年の四月の終わりに思い立ち行ってきました。

田植え前の石場寺の集落。
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石場寺は、聖徳太子により建立された古刹ですが、戦国時代に織田信長による兵火にあい衰退しますが、徳川の時代に復興され、現在は臨済宗妙心寺派の禅寺です。
山門跡から約三百段の自然石の石段を上ります。
石段の両側に、かつての塔頭跡の石垣が残り、当時の寺の規模が想像されます。
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石段脇に並ぶ石仏。
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石段を登りきるとさほど広くない境内は、静寂に包まれ、新緑がまぶしく、すがすがしい空気が漂います。
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自然の岩壁を背景にした禅寺らしい石庭。
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170年ほど前「湖麟楚東」は、ここに住み絵などを描いたのか・・・
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そんなことを思いながら石段を下り、隣の「五箇荘」にある、絵を購入した近江商人屋敷「八年庵」に、また何か面白いものがないか行ってみることにしました。
ところがあいにくこの日は開いていませんでした。

「八年庵」は、豪商「塚本家」の分家で文化人でもあった塚本源三郎の元邸宅で、空き家でしたが地元の工務店の手により改修再生されたものです。(ちなみに女性の肌着メーカー、ワコールの塚本家もこの地の出身です)。
5年前に「八年庵」に訪れた時は、塚本源三郎と交流のあった福沢諭吉や勝海舟などの書状や掛軸など貴重なものを見せて頂きました。
福沢諭吉が塚本源三郎に送った書状。
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天秤棒をかついだ近江商人の旅姿の貴重な写真。
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久しぶりに伝統的建造物群保存地区に指定されている五箇荘の「金堂地区」を散策したのですが、この日は祭が行なわれていました。
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大人も子供も祭の装束は、天秤棒をかついで他国に商いに出かけた近江商人の装束です。
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帰りは、金堂地区から南に30分程歩き、旧中山道に出、近くを走る近江鉄道の「五箇荘駅」から帰ることにしました。
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近江鉄道の終点の「近江八幡駅」で降り、JR東海道線に乗り換えずに途中下車し、「ひさご寿司」という店に寄ったのですが、そこで大変珍しい「鮒ずし」の握りを頂きました。
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by y-tukide | 2015-08-10 09:03 | かいわい

観音正寺かいわい

京都駅から新幹線で東に向かうとき、近江八幡を過ぎたあたりの左手に小高い山が車窓から見えます。
山の名は繖山(きぬがさやま)別名観音寺山、標高433mの山です。山頂付近には、西国三十二番札所である「観音正寺(かんのんしょうじ)」があります。
この山を見ると、懐かしさにかられ一度観音正寺に行ってみたいといつも思います。
というのは私が高校時代、私の友人の家が観音正寺の住職と親戚筋にあたり、当時勉強の合宿と称し、一週間ほど友人と二人でお世話になった思い出でがあるからです。
また観音正寺の本堂が、平成5年に失火で焼失したことを知ってから余計に気になっていたこともあります。
それで今年の4月の終わりごろの休日、思い立ち四十数年ぶりに観音正寺に行ってきました。
当時は歩いてしか登れなかったのですが、今は車で寺の近くまで行けるそうなのですが、この日は山の麓の「安土町石寺」に車を置き、表参道を登ることにしました。

表参道の入り口の石寺の集落。
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表参道に建つ道標。
この近くには近江中山道が走り、和歌などで詠まれた「老蘇の森(おいそのもり)」があります。
この道標は、中山道から観音正寺へと続く表参道と山麓を巡る道の十字路に建てられています。
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観音正寺のある観音寺山には、室町時代以来近江国の南半分を支配した佐々木六角氏の拠点となった山城の観音寺城跡があります。当時石寺あたりは城下町で日本最初の「楽市楽座」があったそうです。
石寺集落の街並み。
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集落内にある廃船の板を再利用した「船板」を腰に張った蔵。
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参道沿いに建つ「日吉神社」。
観音正寺の守護神として近江阪本の「日吉神宮」より勧進されたもので、平安末期の作と考えられる地蔵菩薩が祀られています。
このあたりから登りがきつくなります。
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1300段の自然石の石段。
白洲正子も観音正寺を訪れた時には音を上げたそうです。
寺にお世話になっていた時、友人と私に与えられた寺の仕事は、八日市か能登川だったか町に買い出しに行くことで、今は考えられませんが石段を競争して上り下りしたことが思い出されます。
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50分ほどかけてきつい石段を登りようやく観音正寺に着きました。
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境内からの眺め。
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観音正寺は、聖徳太子よって伽藍が建立されたものですが、太子がこの地を訪れた際に出会った「人魚」の願いによって建立されたと伝えられています。
私がここでお世話になった時、確かに本堂の奥に顔が人間で胴体が魚の、確か30~40㎝程のミイラを御住職に見せてもらいました。そのミイラも火災で焼失しました。
平成5年に焼失し、平成16年に再建された本堂。
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あの時に寝起きさせていただいた庫裏は火災を逃れ当時のままでした。
初めてここに訪れた日の夜に、当時若かった御住職が私たちに、佐々木六角氏が織田信長に攻められ観音寺城が落城し、寺近辺でも多くの武者が惨殺され、自害し成仏できない霊が夜な夜なさまよっているとの怖い話を散々聞かされ、あたりが真っ暗な山寺で一人でトイレにいけず寝付けず、えらい目にあったことが懐かしく思い出されました。
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当時の御住職は、今は八十数歳になられ里に下り隠居され、息子さんが継がれているとのことでした。
現在、寺では聖徳太子が崩御されて1400年を迎えるに当たり記念事業として、本堂横の石積みの下あたりに「六角堂」の建立と平成5年の本堂焼失前の境内復元整備を計画されています。
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そのことを知り当時お世話になったお礼の気持ちも含め寄進させて頂こうと、御住職を訪ねたのですが、あいにく不在で直接お渡しすることはできませんでした。
後日にご丁寧に当時の山寺の暮らしの様子なども記されたお礼の手紙をいただきました。
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帰り道、私も若き日の思いでを懐かしむ歳になったのだなとつくづく思いながら山を下りました。
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by y-tukide | 2015-07-13 10:05 | かいわい

稗田環濠集落

2月最後の日曜日、仕事で朝から奈良に向かったのですが、仕事を終えた帰り道、国道24号線を走っていて、以前から気になっていた郡山の美濃庄町西交差点の標識に記された「稗田環濠集落」の案内板にひかれ立ち寄ってみました。
そこで環濠集落の南東入口に建つ「賣太(めた)神社」の説明書きを読むと、この神社には「稗田阿礼(ひえだのあれ)」が祀られていると記されています。
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稗田阿礼といえば日本最古の歴史書「古事記」。
稗田阿礼が語り太安万侶(おおのやすまろ)が書き記し編纂した、あの語り部です。
古事記といえば奈良時代の初め、1300年ほど前に編纂されたもの、この環濠集落のある稗田は、朝廷につかえた稗田氏の居住地であったのです。これにはちょっと感動しました。
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説明書きによると古代、大和平野に南北に通じる「下つ道」「中つ道」「上つ道」の三つの道が造成されましたが、稗田集落はその「下つ道」沿いにあり「稗田」の地名は「日本書紀」にも記載されているそうです。
稗田集落の南端で発見された「稗田遺跡」。昭和51年の発掘調査の結果、「下つ道」の幅員は16mで東側に11m、西側に4mの運河が並行して掘られてあり、水陸両用の都の入口羅城門に通じる幹線道路として、政府要人・外国からの使節・人々や荷物が行き交い、にぎわったことがわかったそうです。
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集落を取り囲む堀。
稗田環濠は、環濠としての形を完全に残した全国的にも数少ない大規模なもので、
集落の鬼門の方向に「七曲り」と呼ばれる階段状の屈曲した形状は、中国の漢の時代の「長安故城」を真似て作られたとの説があるそうです。
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集落内に入ると、南北・東西に抜けるメインの二つの通り以外は、狭い路地が入り組み、立派な門構えの重厚な造りの民家が密集して立ち並びます。
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なんともすごい集落です。
奈良という地には、千年の時を超えて残り続けるものが、当たり前のようにあちらこちらにあるのには毎度驚かされます。
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by y-tukide | 2015-03-09 11:12 | かいわい

壬生寺かいわい

京都市中京区壬生で上棟式がありました。
この建物は一階が鉄骨造で2・3階が木造の混構造の建物です。
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上棟式の後、近くにある壬生寺かいわいを歩きました。私は壬生寺を訪れるのは初めてです。
壬生寺は律宗総本山唐招提寺の末寺だそうで平安時代に創建されました。昭和37年に本堂が焼失し、現在の本堂は昭和45年に再建されたものです。
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創建1000年を記念して建てられた千体仏塔。
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壬生といえば新撰組の屯所があったところですが、当時壬生寺境内は新撰組隊士の調練場として使われ、武芸や大砲(おおづつ)の訓練が行われていたそうです。
境内の池の中に壬生塚がありそこに隊士の墓碑や近藤勇の像が立っています。
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そこにひょっこり新撰組の羽織を着た若者が現れちょっとびっくり、
聞くと近くに貸衣装やあるそうです。
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壬生寺に隣接して建つ「八木家住宅」。
江戸時代八木家は壬生村きっての旧家で、壬生郷士の長老を務めていたそうです。
幕末には新撰組の近藤や土方らの宿舎になっていた家です。このお宅は見学することができ、当時組織の長であった芹沢鴨が暗殺された座敷や刀傷が残った鴨居などを見ることができました。
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平安時代、朱雀大路であった千本通り沿いの新撰組グッズを売る店。
ここで新撰組隊士の衣装が借れます。
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壬生寺を南に下がったところに「表屋造り」のとても立派な京町屋「松田家住宅」がありました。
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松田家の路地裏で見つけた、改修された京町屋の長屋。
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壬生寺境内の池の竜のしっぽにアオサギが!
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by y-tukide | 2014-11-25 09:11 | かいわい

ヴォーリズ・メモリアルin近江八幡

建築家であるとともに幅広い分野で大変多くの実績を残したウイリアム・メレル・ヴォーリズの没後50年を記念したイベントが、10月4日から11月3日の間、ヴォーリズゆかりの地である近江八幡で行われているのを知り行ってきました。
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ヴォーリズは明治38年、24歳の若さでキリスト教の伝道を目的としてアメリカから単身来日し、ニューヨークのYMCA本部の紹介で滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高校)の英語教師に着任しました。しかし当時、仏教信徒が多い土地柄で反発する住民も多く、2年で失職することになります。失業し生計を立てるために選んだのが、学生時代に学んだ建築設計の道です。
そして最初に設計し建てた建物が、八幡基督教青年会館(現アンドリュース記念館)です。
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当時の日本の建築の考え方には無かったかもしれない、住まい手を充分配慮したヴォーリズの合理的な設計が評判になり、その後住宅をはじめ教会・郵便局・学校・病院など15000棟の建築を手掛けることになります。関西の主な建物では神戸女学院・関西学院・京都と心斎橋大丸・豊郷小学校などがあげられます。

JR近江八幡駅を降り、最初に向かったのは池田町にある大正期に手がけられた住宅群。
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この期間、内部も特別公開されたウォーターハウス。
一時期ヴォーリズ夫妻がここに住んでおられたそうです。築100年の建物で内外装とも改修されて、国登録有形文化財に指定されています。
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ウォーターハウスに隣接する吉田邸。
この建物は、商業学校在職時代の教え子である吉田悦蔵氏の住宅です。彼はヴォーリズの片腕として活動を支えました。この住宅群の中でヴォーリズの奥さんである一柳満喜子夫人と共に、近くの子供達をあずかる今でいう学童保育を始めたそうです。
子供たちの教育対する熱心な活動がその後の「近江兄弟社学園」と発展します。
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近江兄弟社学園内にあるハイド記念館と教育会館。
ヴォーリズの活動に共感したアメリカのメンソレ―タム社の創設者であるハイド氏が多額の寄付で建てられたもので、2003年まで幼稚園として使われていました。
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ヴォーリズ記念館。
晩年をヴォーリズ夫妻が過ごした住宅です。内部はシンプルな間取りで、建物の奥には満喜子夫人のための数寄屋風の和室が設けられています。
ここで今回のイベントでボランティアされていたご婦人に、私が以前から気になっていた「近江兄弟社」の名前の由来をお聞きしたのですが、「兄弟」というのは神のもとではみなが兄弟姉妹であるというヴォーリズの「隣人愛」の精神のからつけられた名だそうです。
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近江八幡は、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次が築いた城下町です。その後近江商人である八幡商人の商業都市として発展し、新町や永原町には今も商人屋敷が建ち並び、往時の繁栄が色濃く残る町並みは、伝統的建築群保存地区に指定されています。
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この歴史ある八幡の町並みの中に、ヴォーリズの洋風建築が違和感なく溶け込んでいます。
今回、ヴォーリズのことを勉強し建築家としての才能のすごさを再認識するとともに、この地をこよなく愛し「隣人愛」の精神のもと様々な活動をとおして、地域に多大な貢献をした偉大さと人間的魅力を改めて知ることができました。
八幡の人達が「ヴォーリズ先生」と呼び今も尊敬していることが十分に理解できました。
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by y-tukide | 2014-11-10 09:37 | かいわい

奈良 大宇陀散歩

この日曜日、奈良盆地の東方に位置する山間の地、宇陀(うだ)という所で築60年の古民家改修の依頼があり、調査に行ってきました。
昼過ぎに調査を終え、そのあと久しぶりに大宇陀の松山地区をぶらぶら歩きました。ここにはこれまで何度か訪れています。
大宇陀は、松山城の城下町であるとともに、古代には「阿騎野」と呼ばれ、宮廷の薬猟の地でもあります。また「万葉集」の歌人「柿本人麻呂」が天皇の薬猟に随行して読んだ歌「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」でも知られる「かぎろひの里」としても有名です。
「かぎろひ」とは厳冬の良く晴れた日の出の1時間程前、東の野のかなた一面があかね色や紫色に染まるなかなか見られない自然現象です。ちなみに毎年陰暦の11月17日の早朝にかぎろひを見る会が行われています。

江戸時代、松山地区には商家が建ち並び、薬の町として最盛期50軒以上の薬問屋があったそうです。現在も往時の様子を伝える江戸時代からの建物が現存し、風情ある町並みを形成し、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

松山地区の町並み
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この建物は江戸時代の建物で元禄15年創業の造り酒屋さんです。
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山邊家住宅、この建物も江戸時中期の建物でこの地区の中で年代が判るものでは最古の町家です。
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唐破風付きの豪勢な造りの看板が上がる旧細川家住宅。現在は宇陀市が管理し大宇陀歴史文化館「薬の館」として公開されています。細川家2代目の次女が生んだ子供は藤沢薬品工業(現アスレラス製薬)の創設者だそうです。
建物は江戸末期のもので館内には当時の興味深いものがいろいろ展示されています。
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藤沢薬品工業の当時の商標だった鐘馗さん。
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当時の薬の看板いろいろ。
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こんな看板も。
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この図面は東京芸術大学建築科教室の学生さん達が、この建物を実測し書き上げた図面集の一枚です。
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薬の町大宇陀にある国史跡「森の旧薬園」は、民間の薬草園としては日本最古のもので、園内には約250種類の薬草が栽培されています。先週降った雪がまだ残る薬草園には、春を告げる花、福寿草が咲いていました。
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by y-tukide | 2014-02-24 17:27 | かいわい